感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

何か違う から

また始まった。「なんかこう、違うんだよなぁ」っていう感覚。 でも何が違うのか分からない。いや、多分どこかではわかってる。わかってるから違うんだもの。でもわからない。

やっぱり生きるの向いてないんだよなぁ。いや、生きること自体は向いてると思う。半分ぐらいが死ぬような状態でも生き残る自信はある。その気があればの話だけど。その気、というのは重要だ。それが湧かないのが今なのかもな。

ほら、惰性で生きてるでしょ。そりゃ湧かないよね。今まで見ていた価値がことごとく、瓦解する氷山のように崩れ去った。新しく向こう側に見えている、多分これも価値なのだろうけど、それは今のこの生活の中にはない。言い切る?強気だねぇ。でもそうやって頑固だから僕は困るわけですよ。

 

まぁほら、どっち付かずなんだよね。現実問題としてこの生活しなきゃいけないし。まぁ多分それも思い込みなんだけどね。安定を手放す不安の問題だって書いてあるのをよく見るけど、別にそこまで執着する程安定した安定でもないし、独り身ならぱっぱっと捨てると思う。優柔不断だけど決まれば早いから。独り身じゃないことを言い訳にする?結局そこになるから考えたくないんだよなぁ。それを言い訳と言う態度。だから辛いんじゃないですか。でも実際その生活が必要というのは思い込みで言い訳じゃん?楽に生きたいなぁと言いつつ間に挟まって喜んでるのは自分じゃん?喜んでないけど。

急ぎ過ぎなんだよ。焦るのも分かるけど。そりゃ焦るよね。何も手につかないんだから。それも分かるけど。

大体こうして指に任せてタイプしてても君は僕の成分が薄い。君も。他のもそう。何で僕はそんな曖昧な自分の中で板挟みにならなきゃいけないの?抜けないからじゃん。そうね、言いたいことは分かってるわけ。でも無理なものは無理じゃん?無理だっていうのが思い込みなの。それも分かってるんだけど…分かってないよね。五分五分かな。そりゃ五分五分になるよね。堂々巡り。

 

休憩しよう。

 

抜けた人はさ、心理学方面でも、スピリチュアル方面でも、キリスト教界隈でも、仏教界隈でも、抗わなければいいという。*1 変化は抗えるものではないし、受け容れるのが近道だって。それは分かる。分かってないのかもしれないけど、多分分かってる。でも身動き取れないから仕方ないって思うとすれば、やっぱり分かってないじゃん。って。またそれ始めるの?ちょっと落ち着こう。お互いフラストレーション溜まってるよね。僕だって同じよ。誰のせいだよって話だけどね。先手を打って否定しないで欲しいね。ロジハラだよ…))

なんか性格変わったよね。前より仲良くなったから構成が変わったのかな。前は単純に世間一般で言う頭と心とか、思考と感情の板挟みだと思ってたけど、今は混ざってる。そんな気がする。変化しなきゃいけないって感覚に思考が追いついたとか、そういう単純なものではないと思う。寧ろもっと単純なんだけど。そう、その言いきり方。もうちょっとこう、優しくなれないかな。優しいからこうしてるんでしょ。そりゃそうなんだけど、ん?そうなの?そうだよね。はい、ありがとね。そういえば今一対一かな。珍しい。さっきはもっとばらばらだったのに。音楽聴きながら書くこと書いて落ち着いたからかな。

なんかもういいやってなりそうだけど、折角だから何か考えてみようかな。

チューリップの花、美容院の花壇。懐かしい光景。黒い自転車だから小学校低学年の頃だ。自転車置き場の物置、色んな用具の匂い。裏口の貯水槽、プロパンガス、いつも通り過ぎてた。3階の家、電話機、2階に入っていた塾、この先生の顔思い浮かべるのいつぶりだろう。こんな人いたなぁ。よく保存されてたね。記憶って不思議。開かずの踏切、八百屋、これ思い切って遠く行けるのかな。スイミングクラブの近くのドブ。ザリガニの穴場だった。I君、居たなぁ。凄い、色々想い出せる。T君とそのお母さんの喫茶店、元気にしてるのかな。追いつかないからいちいち書くのやめる。

 

必要そうなものは見つからなかった。記憶って懐かしいけれど、思い出さなくていいものを思い出すのが怖かったりする。思考や記憶やイメージの中ばかり彷徨ってる癖に臆病なことだよね。宝探し感覚。パズルのピースを探していて、でもパンドラの箱に当たっちゃったらどうしようと内心ドキドキしながらもワクワクする。その不確かで正確性も分からない記憶も、一度探り当ててまじまじと見てしまえば固定されてしまう。だから何も見つからなくても、ガッカリしながらもちょっとホッとする。

最近想い浮かぶ記憶は小さい頃のものが多い。何故唐突にそうなったのか分からない。20代の頃はずっと同じ時期(高校時代)の記憶に囚われてそれどころじゃなかったからかな。今は寧ろその頃のことはあまり考えないで済んでいる。というよりあまり必要性も感じなくなった。

僕は子供の頃の感覚を捨てないまま大人になったような部分があるとは思う。それを認めてからは以前よりももっとより自分らしい物事の捉え方を取り戻せたし、大人ぶるだけで否定されてしまうような部分も戻ってきたのだろうと思う。

感覚が戻ったから記憶が開きやすくなったということもできるかもしれないけれど、そこに置き忘れてきたものがある。ある?分かってるくせに。だからさっき長々と言い訳したんじゃない。パンドラの箱が怖いって。そうなのかな。まぁいいや。よくないけど。いいってことにしよ?

まぁ必要のないことはないのだろうし、その頃の記憶が浮かぶのは何か必要があるからなのだろう。野次は無視。だったら必要性に駆られれば、それが必要な時になればそれは起こると思う。焦らなくてもいいのではないか。って言いながらもまだ記憶がちらちら浮かんでくる。今は見ない。怖いんじゃないけどね。多分。いや、怖いんだよね。

まぁ一回目じゃないから躊躇するのも仕方ないよね。何で記憶にばかり振り回されてるんだろうか。今に生きろって誰かに怒られそうな人生。今に生きたいから欠陥を正そうとしてるだけなのになぁ。

 

区切ろう。解散!

久々に乗りが良かったな。最近は思考が続かなくていくつも途中で下書き送りになってたけど、そういう時は思考を切り離して書くと乗るんだよね。

合わせ鏡。唐突なキーワード。なんかね、2日くらい前から色々と合わせ鏡なんだなぁって思う。僕はその中に映る自分の、精々2、3人の中に居るんだなって。外に出てもそれが増えるだけな気がする。

 

いつも意味不明でごめんね。そういう芸だと思って嗤って!

 

 

*1 例えばこれとか


The Art of Loneliness

 

これとか


The Dark Night of the Soul (Losing Who We Thought We Were)

 

内的な変化を受け入れたが故の変化(再構築?)の過程で、外側の置かれた状況が変わらなければまた引っ掛かってしまうという焦りはどうしたらいいのだろう?今まで通り寝て待ちたい自分とそれじゃだめだっていう自分。正直今書いてる自分はどっちでもいいと思うんだけど、これじゃ身が持たない。