感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

幸せ から 心地良さの層 感情の深みによる彩り 『好き』 "Walking Stars" - Kai Engel

幸せってものの体感を僕はあまり分からないから、「人生の幸せが~」とか言われても抽象的すぎて理解が難しい。そもそも幸せって何なのだろうかってなる。

体感でないのなら認識なのかなとも思ったけど、頭で今は何不自由ない幸せだって思おうとしてもそれは理解ではなく自己暗示なのではないかとか、やっぱり掴みようがない。

でもそもそも何でそんな風に、人生と幸せを結び付けて考えてしまうのかといえば、今まで取り込んできた情報によるところもあるのだろう。何かと、幸せを見つけること、幸せの大切さが人生と結び付けて説かれているから。

 

でも僕にとっては、幸せの一般的なイメージが合わないのかもしれない。例えば、幸せってよく心地良さと結び付けられているけど、心地良さ、自分にとって心地良いことを思い浮かべると、それには層があることが分かる。例えば頭を空っぽにする心地良さ。マインドフルネスとかもそうだけど、これは確かに心地良いが僕にとっては表層的なものだ。味気ない。これが自分にとっての幸せなのかと思うと多分違うと思う。

 

より深い場所にある心地良さは感情や気持ちの中に沈んでいる時。これって歓喜もあれれば陰鬱や悲愴も含まれるけど、この深い心地良さ。これが僕にとっての幸せというならそうなのかもしれない。何故そう思うことができなかったのかと言えば、苦痛と混じり合っているからだろうか。でもよくよく考えてみたら鞭で叩かれて幸せと言う人も居るくらいだからそれでいいんだよね。

多分、幸せは苦痛の外側にあると思っていたから、苦痛だらけを越えた先にあると思ってしまったのだろう。苦痛と幸せが入り混じっちゃいけないなんていうのは水と油的な捉え方の人の理屈じゃないか。それは心地良さだけを見て幸せだと言える人、苦痛など気持ちの問題と言い切れる人の理屈。何で気付かなかったんだろう。

 

色彩、音色、感触、これらも喜びや苦痛が垣根を越えた時により一層深みを増した。どんな経験も見える色のグラデーションを深めてくれるし、音色に複雑な深みを与えてくれる。その美しさに触れている時というのは、確かに苦痛も垣間見えるのだけど、これほど僕が奥底から好きと思えることが他にあるだろうか。

『美しい』という感情はある意味で様々な感情や気持ちを総括したものであって、経験を重ねること、そして自らの感情を深めることに大きな意義を与えてくれるものなのかもしれない。

 

例えば音楽。外界の辛さを和らげるために音楽を聴いて、そのフィールドに包まれることで身を守っているという認識だったから、それは僕にとっての現実逃避だとも思ってた。でも現実逃避なんて類のものではなく、感情ばかり見ている僕には、こっち側こそが現実でいいのかもしれない。僕にとっては感じたことだけが自分にとっての現実だって前から思ってたのに、そう思い切れてなかったのかも。現実を生きようとするあまり。

 

感情による知覚の彩りが経験に意味を与え、その経験が人生に意味を与えるなら、もうそれでいいんじゃないか。何かしなきゃいけないってどこかで思い続けていたけど、自分にとっての幸せというものがそっちにあるなら、そっちを見ていられるように何かをすればいいだけなのかもしれない。「~しなきゃいけない」。思い込み。Limiting Beliefs。なのに見えてなかった。

何で現実に振り回されてたんだろう。現実がおまけっていう見方の方が回り回って動きやすくなるかもしれないのに。

 

数独でさ、どうしても揃わないセクションがいくつかあって、その間違いを辿って戻って戻って戻った先に原因のマスを見つけて、そこにぴったりはまる数字が見つかった時の気分。

 

例えば今流れているRyan StewartのEquanimityを聴きながら、飲んでいるミックスハーブティーを口に含んでその舌に絡む風味を鼻から押し出した時に様々なコンビネーションで駆け巡る情景や感情。その深みに身を預ける時間が幸せなら、それをより味わえるように現実を立ち回ればいいということなのではないだろうか。まぁ家族も居るから中々そこまでは軽くなれないだろうけど。

 

やっぱり外側から入ってきた沢山の隠れ白黒、水と油は自分なりに捉え直さないとかも。

様々な他の情報と同じで、分かり易いものほど、広がり易いものほどそうなってる。それは多分、大元を辿れば白黒ではなかったりするのだろうけど。でも善悪、正誤、光と闇のような一目でわかる二元ならいいけど、理想化の結果そうなってるものは少し見つけ辛そう。ゲーム感覚で楽しみながらやれればいいんだけどね。

 

こうして考えてみるとやっぱり僕は答えがない世界の方が馴染むんだと思う。前提ありきの答えより、やっぱり自分が感じ捉えられる範囲で、自分なりを追い求めたい。それは可能性は可能性に留めておきたいということであって、自分の存在さえもその土台に置くから全てがあやふやになる辛さはあるのだけど、そんなあやふやから見る世界は儚くて希望もあって何より美しいと思う。それが好き。

 

先ずはもう一度、『好き』を集めてみようと思った。幸せかどうかは分からなくても、やっぱり好きなものには確かな好きがそこにあるはず。それはやっぱり何より確かな方位磁針で、心からありがとうと思えた時初めて指し示す方角が見えるのかもしれない。

今なら色んなピースがはまるような気がする。

 

 

これ好き。


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さっきお散歩中に流れ星見えないかなって暫く空を眺めてたけど、月や街灯が明る過ぎて流星どころかペルセウス座周辺の星すら見えなかった。月の入り頃なら見えるかな?って思ったけど朝まで沈まないのか。

ほうき星からこぼれ落ちて宇宙を漂ってた塵が地球に捕まって燃え尽きる、その最後の光って、何だかとてもロマンチックだよね。降り注ぐ彗星の思い。