感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

経過

いつも書いている気がするけど、無意識に感情をまき散らす人、他人の感情を巻き込む人、それに巻き込まれながら他の人を道連れにしようとする人、理性的な顔をしてその土台の感情を隠そうともしない人、そういう人たちが本当に苦手。人格否定する意味ではなく個人的に苦手ということ。

生の感情が苦手。生もの。そのまま出てくるやつとか、刺激に対する反射的な物、ヘイト。

 

内的にプロセスされたものというか、熟成されたものなら大丈夫。というよりもむしろ好き。こっちには輝きがある。見ていて辛いものでも拾いたくなる。

その違いが何なのかはよく分からない。自己投影なのかな。無意識だけど処理してると自負してるのか。ともかく傲慢なのは分かってる。

 

例えばそういった感情に曝されてこっちも余裕がなくなると、感情の処理や自覚に関して「なんでそんなこともできないんだ」って思いが出てしまう。気を付けてはいるのだけど、例えばこの前ふとブログを書いている時に出た「自らの感情に対する責任」という言葉、そういう風に出る。

それって自分ができる(又はそう思い込んでいる)ことを当たりだ前と他者に押し付ける姿勢であって、結局僕が普段嫌いだと思っていることを自分がやろうとしている。

それを自覚したとき、自己嫌悪が乱反射して増幅し、もの凄いことになる。

 

余裕があってほんわかしてる時は違う。抑うつ状態で沈み込んでいる時というのも別(自分に向かうから)。

それが起きるのはストレス下であり、荒波でぐちゃぐちゃになっている時。そういう時に真逆側の自分が優位になる。理屈で人をねじ伏せることをする人間だろう。それって普段の僕の価値観からすると有り得ないのだけど、多分価値観自体固定されてるものじゃないんだろうな。自分の中に居る自分の数だけ価値観があるのだろう。脆いものだ。

 

深く潜り、手繰っていくとある点を境に反転するもの。ユングが影というもの。それを発展させたものでShadow functionと呼ばれるもの。その辺りだと思う。

 

とにかくそういう自分がいて、でも頭に押さえつけられて正論を振りかざすこともできず、そこで何をするかと言えば、外を攻撃できない分自分を攻撃する。自分の内側で内戦状態になる。どうしたらいいんだろうなぁと思うけど、外に出さない点においてはwin-winなんだよね。ややこしいな。その存在がある以上自罰も受け入れるしかないのだろう。まぁいいや。

 

 

自己理解が進んできたのは良いことだと思う。見えたということ、一度でも認識したということは大きい。相手がインビジブルではなくなる。それは感情が先に来て訳が分からないまま振り回される僕のような人間にとっては非常に意味のある事。幻影かも知れないけれど…

まだ深める余地は沢山あると思う。影を統合するのか、それとも状況ごとにコントロールするのか、対処法も色々あると思う。

 

 

もう一点、生の感情を振りまく人が苦手というのは、僕が影響され易いということもあるのだろう。実際に目に見える形で影響されるという意味ではなく、僕の中に入ってくるものは漏れなく問題なんですね。

僕はよく乱反射とか増幅って書くけれど、感情の出口が少なくて(貴重な一つの出口がここ)、回路がめちゃくちゃだから僕の内側で処理能力を超えるんだと思う。

例えば感情をそのまま出せる人、例えば他人を怒鳴りつけられる人はそこで出せる分出口が多い。それは健康的なことだ。個人的には苦手だけどね。

 

去年ここを作ったことで出口は増やした。それはとても大きな変化だと思う。

入ってくる情報を絞ることも覚えた。特にこういう時は必須。

自分なりに外側の分析も進んでいる。哲学的な思考は必要なのかもしれない。

捉え直しもしている。合わない捉え方は毒だ。それが外の世界には溢れている。

価値観の発掘も進んでいる。少しずつ掘り起こし、繋げる。考古学者の気分。

 

内的な苦痛も必要なもの、むしろ望むものと捉えるように変わってからは、前のような苦痛ではなくなった。ニーチェには色々感謝している。その過程で逆に避けるべき苦痛やストレスがあることも分かってきた。

迷子になるのは、まぁ、仕方ないことなのかな。

過去については、やっぱりもう少し時間がかかると思う。

 

最初に戻るのだけど、そういう人たちにはそういう役割があるのだと思う。感情を振りまく人は社会の原動力になる人たちに色んな影響を与えるし、影響される人は常に流れの中でマンパワーになる。その連鎖は良くも悪くも劇薬になる。そういうものなのだろうなぁと思うし、それらすべては必要なのだろう。そう見ることで僕はその存在を、自らが反転した時でも認める方策を得た。僕自身が同じものを内包しているということも含めてね。

それは僕の中にある一つの価値観として重要な物。何故だか、みんな素晴らしくて認められなければならない。

 

ただ、認めたからといってそれがどうしても僕の別の、複数ある価値観とぶつかってしまうものであることに変わりはない。特に集団になると、多くの場合彼らの行動や態度に対し僕の中の何かは敵対の姿勢を示す。

結局のところ根本にあるのは感情、価値観、感覚。

小学校時代から始まって、未だにそこから抜け出せない。一生悩むと思う。

でもそれは、そこに大切にしたいものがあるということだろう。彼らがその時蔑にするものが僕にとって大事だということ。一生悩むならこの生の仕事はそこにあるということだと思う。

 

まぁでもとにかく早く隠遁したい。森に帰りたい。静寂を見つけたい。

 

 

全くまとまってない羅列だけど経過としてはそんな感じです。

かなり支離滅裂なブログだと思うけど、そういう人が捉え直しや捌け口、時には叫びとして使ってる場所です。温かく見守ってあげてね!