感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

9月という死神 これから消える命

憂鬱な9月が来る。

今年はいくつの若い命が消えるだろう?9月は本当によくできた死神だと思う。

 

夏休み、束の間の休息は心を休めるのには不十分でも、解放の味を知るには十分な時間。その浮き上がりかけた、輝きを取り戻しかけた心を絶望の淵に突き落とすのが9月。

その絶望の淵で彼らが見るものは、秋にしがみつく寒く冷たい冬の影であって、暖かい春は見えない。その暖かい春も解放を意味するとは限らない。救いのなさとその孤独を思い知ることとなる。

浮き上がった分深く沈むことになる。その解放の味が、苦痛と同義になった生からも彼らを解放するのかもしれない。

 

彼らの死は一つのセンセーショナルな話題にしかならない。そして彼らは単なる数字になる。彼らは世間にとっては結局は異質で、単なる脱落者に過ぎないから。だから受け止めない。直視しない。

他人事だから犯人探しができる。そうすることで自分を正当化することが出来るから。

 

でも失われた者は戻ってこない。そしてただ繰り返される。

 

以前はただ虚しかった。でも今は本当に辛く悲しい。珍しく怒りも入り混じって感じる。

僕の見た深く冷たい世界よりも辛いものを感じる子たちが沢山出る。その自分の鏡を重ねるからだろう。鏡が乱反射し、被写体である自分の見た世界が万華鏡のような途方もない世界になる。

結局は自己満足の世界なのだけど、僕はそう生きるしかないということだろう。

 

僕にとって9月は解放でもあった。

それはもっとも、僕にはあの8月は休息ではなかったし、ヤクザの見習い連中による呼び出しに次ぐ呼び出しで出席日数が足りなくなり、登校というものが意味を失ったから。

そしてたまたま帯状疱疹になり、解放の朝の光を浴びることが出来たから。そして心の支えがあったから。僕自身が奪ってしまった、支えになってくれた存在が。

それに続く冬はもっと辛かったけど、ただ事実として死にはしなかった。たまたま。

そのすべてが偶然重なり、偶然生を繋ぎ、偶然のまま生きている。

 

僕の場合ヤクザ見習い連中だったから、暴力性が分かり易かったのも今思えば良かったのだろう。これから失われる子たちが受けている暴力はもっとどす黒くてじめじめしている。それは多くの人にとって見えないものだ。すべての人が持っているのに。

子供の世界だからと侮ることは出来ない。大人と同じものを彼らは既に持っていて、無意識のまま行使している。

僕はそれは見たけれど、そちらの標的にはならなかった。

 

犠牲はただ、犠牲なのだと思う。人間の築いたシステムと、人間そのものの内側にあるものが繋がっている大きな欠陥。犠牲は必要なのかもしれない。

ただ、その不条理さを認めるには、僕は幼過ぎるのだと思う。

でもこのシステム上の犠牲なのだとしたら、そのシステムの上に生きる僕たち全てが一つ一つの消える犠牲に対峙しなくてはいけないと思う。

彼らは人柱でもあり生贄でもある。だとするなら、僕たち全員が捧げる側であると意識しなくてはいけない。僕たちが殺したのだと。少なくとも幇助はしたと。

 

数字の上でも日本はかなり特異。でもそんな話がしたいのではない。それをいつまで続けるのかということ。変われないから変わらないのは分かる。ならせめて、自分たちが続けているという意識がなければいけないのではないかと思う。

 

 

僕は彼らに「生きろ」と言うことは出来ない。僕は彼らそれぞれの辛さは正確にはわからないけれど、その欠片は知っているから。その中における思考も、見える世界、内側の世界の辛さも。

彼らがその選択をした先の不安も、現実に訪れるかもしれない不幸にも、僕は責任を持つことが出来ないから。

死が解放の側面を持つ以上、生きることを強制することは出来ない。生きることが正しいというのは、そういう人の外側からの理屈でしかない。

 

どの選択をするにしても、彼・彼女自身を、そしてその選択を受け容れ、尊重しなければならないと思う。

でももし生きることを選んでくれるのなら、僕は本当にうれしい。

 

 

「逃げろ」というのも、結局は外側からの理屈だ。それは確かに正しい。僕も最中の人を前にしたとき、そう言うかもしれない。

一度逃げて外側から見ることで、初めて束縛の外の世界を知ることが出来る。僕にとっての解放の朝の光のように。環境の内側に居る限り、ストレスを受けた心で物事を見ることになる。

でも迷路の中にいるネズミは出口がある事すら知らない(本当はネズミは知覚できるらしいけど)。

『逃げる』という行為は一種のブレイクスルーだ。その存在は見えているようで見えていないし、掴めるようで掴めない。束縛を受けた孤独の中で選ぶには霞のような存在。偶然逃げることが出来た人間の理屈なのかもしれない。彼らにとってその選択が本当に難しいことを、僕たちは認めなくてはいけない。逃げなかった子たちの存在と選択を認めるためにも、その助言の欠陥を自覚するためにも。

 

 

「死ぬな」という言葉は、死神の気まぐれさを知らない人の理屈だろう。その選択をしようと思ってする人は多くないと思う。ただ、ふっと冷たい風に吹かれた蝋燭の炎のように、消えかけたものは突然消えてしまう。その風は気まぐれに襲ってくる。ふらっと、吸い寄せられるように。

離人感や感情の喪失は全ての現実味を失わせる。それはその状態においては必要なのかもしれない。でもそんな時、死は身近にやってくる。

 

失いかけた感情の爆発も死神を呼び寄せる。

僕はたまたまコントロールには慣れていたから耐えることが出来た。でも人によっては本当に難しいものになると思う。双極の傾向のある人は特に。

 

 

そういった状況の人にどういう風に対処すればよいのか、それはわからない。わからないというか、そんなのは人と人の関係の数だけあるだろうから。でもまずは、その状況に置かれた彼らをしっかり見て、自分自身として向き合い、すべてを認めて欲しい。

その人自身、その人の置かれた状況、その人の選択、その人の行動、その結果、その人の感じ方、思い。そして関係性を見定めて欲しい。助言や手を差し伸べるのはその後でいい。勿論彼らがそれを受け入れるかどうかは別の問題。

ただ、その姿勢のない言葉ほど、どん底に居る人を更に奈落に突き落とすものはないから。

 

蜘蛛の糸を垂らすにもそれなりの覚悟が必要だと思う。そこに縋った人は、糸を離したら落ちるしかないのだから。もっと深く。

 

 

多分僕はこのループに一生取り残されるのだろう。僕が何をしたというのだろう。いや、なにもしなかったからこそなのかもしれない。

辛く苦しい9月。皆で背負っても重いものは重い。一つの死も、二人が直視したら二つになるのだから。その重みに何の意味があるのかはわからない。でも僕はきっと、それを必要としている。消え行く者の為ではなく、自分の為に。

自分に死神を見ているのかもしれない。でもみんなそうなんだと思う。

 

 

書きながら涙が出てくる。彼らが何をしたというのだろう。だから9月は嫌い。冬はもっと嫌いだけど。 

何を書きたいのかわからないのはいつものこと。わざわざ読んでくれた方、いつもごめんなさい。