感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

反戦思想 から 二元の統合と二元を認めること 目印としての中庸 内外という二元

毎年この時期になると思うのだけど、終戦の日に慰霊や平和に思いを馳せるのは必要なことなのかもしれないけれど、平和という観念に混じり込んだ反戦思想を振りかざして過去の戦争そのものを過ちと断ずることはどうなのだろう。平和を謳いつづける国としてはそういう平和の捉え方は短絡的過ぎるし、時代の流れの中で様々な思いを抱いたまま戦い、または戦わず、その結果死んだ人からすれば慰霊どころか凌辱にすらなっている場合が多いのではないだろうか。

 

反戦が悪いって言うんじゃなくて、節度というか。その節度を忘れさせるのは正しさでしょ。その正しさは誤り・悪が反対側にあることが前提で、その思いの抱き方だと結局土俵を作ってしまうだけじゃないのだろうか。争いは同じレベルでしか発生しないっていうのはそういうことだと思うし、平和平和と言いながら感情の方向性というのかな、それは好戦的な顔をしている。そしてこのまとまり方、この流れ方が一番何かが起きた時に手のひらをくるってするタイプでしょ。歴史に学ぶっていうのは目を逸らして一部分だけ見ることを意味するわけではないと思うのだけど。別にいいんだけどね。

 

節度と書いたけど、時代の表舞台から退いた人たちに対して死人に口なしの態度でいいのだろうか。個々としても集合としても、あまりに報われないのではないかと思ってしまう。今の世代の考え方は今の世代の考え方だしそれはいいのだけれど、その短絡的な平和観がなぜ祖先に対しての敬いよりも勝るものになれるのだろうか。短絡的っていうのは悪い意味ばかりではなくて、それこそある意味では純粋なエネルギーなのだろうから、それ故にってことなのかもしれないけど。

 

この節度っていうのはことあるごとに思う。最近だと元首相の件だってわーわー言うのはせめて49日ぐらい待てばいいのにと思ってたし、コロナ陽性で死んだ人に対する当たりとかもそうだし。

普段は礼節を重視するような人が、人から人々になった時それを簡単に踏み越えてしまうのがなんか怖い。理性の儚さ。仮に前世というものがあったのなら、これに殺されてるんじゃないかって思う。

 

分断っていうのも、これがなぜ起きるのかと考えると、結局感情なんだと思う。本能。不安や恐怖に対する防衛反応による共有。ヒトの持つ社会性って曖昧だから仕方ないのかもしれない。でもその感情をせめて気持ちになるくらいまで一人一人が見つめたのならここまでの激流になることもないんじゃないかとも思う。

でもフランス革命を劇薬と書いた人は、その劇薬も歴史の中では必要なものだったというスタンスだった。それはそうだと思う。歴史を外側から見つめるならそう在るべきだろうとも思う。だけど、じゃあその繰り返しで何が生まれるのだろうかとも思う。この辺は主観をどこに置くかってことなのだろうけど。

 

こういうのもさ、個人的な思いとしてはそういう部分は越えていけたらいいなぁと思うけれど、それも結局自分の感覚に基づいた価値観でしかなくて、他の人たちは個性や個人的な経験をもとに別のものを見ているのだろうし、それはそれで多様性として認めたいっていうのも個人的な思いで。そんなことしてるからどんどん自分が自分の価値観の中で閉じ込められていくんだよね。それも嫌いではないからいいのだけど、押し潰されないようにしないとなぁとは思う。

 

人間の価値観って面白いよね。

執着を手放そうとすると執着を手放すことに執着してしまい、依存を越えようとする人が鞍替えした自分の依存から目を背けて自立した自分を生きる。(どれも言葉のイメージの弊害とも取れるけど。)

 

二元の統合っていうのが難しいのもそういう所だと思う。(言葉のイメージとしては統合が一番僕には合うのだけど)

本当に二元を統合できたのなら、二元に対して少なくとも反射的な感情は湧かなくなるはず。防衛の必要が無いのだから。

最初の反戦だって様々なイデオロギーだって、在り方が二元の片方になると片側としての自分というアイデンティティ的な在り方を守ろうとするあまり、敵としてのもう片側を必要とする好戦的な部分が出るってことでしょう。これを僕は多分いつも土俵と書くのだろうけど。

 

なのに二元で断ぜられた時に「そうじゃない」って咄嗟に思ってしまうのも、外に見る二元に否定的な感情が生まれるのも、内面の二元を投影しているに過ぎないってことになる。

二つの〇を包む一つの大きな〇、そこから見れば何を言われても大体は「そうかもなぁ」でいい話なのだろうからね。

「そうだね。まぁでも~」っていうテンプレ的な回答の素晴らしさ。それは双方向性のものなのかも。鏡の双方。

 

それが言えない時は、それはつまりそこに否定性が生まれ、自分の内面で勝手に土俵を作り出して上がってるとも言える。二元の非統合に対する否定という二元。

 

そういう意味では、本当に統合というレベルで二元を認めるなら、二元に引き戻される自分も居ていい(そういう自分も内包している)ってことになるのではないだろうか。それは大きな○の自分も居れば、その中の二つの小さな〇の双方に自分の内面に居る自分を見ることでもあるし、それはバランスが崩れればどちらかに寄ることを意味するのだから。弱さを認めるというのはそういう意味でもあるのだろう。

その上で、そのそれぞれの○の中のどの辺りが、普段のそれぞれの自分として心地良いのかを、考えるのではなく感じ取ること、それが中庸であって、目印なのだと思う。

 

目印。目安。『自分なり』が変われば位置も変わるし、常にそこに立っている場所ではなく、ズレた時に「あ、今こっちに振れてるなー」って思えるような目印。見通し不安じゃないけれど、何でも見通せていれば余裕も生まれるしね。

 

この辺は自分の内面のことだけど、その二元は多分、自分の外側にも言えることなのだろう。

内外。内面と外面。鏡の両面。僕のように外側に内側を写し見てる人間は内側に偏りがちだけど、内側がなければ外側はないし、その逆もない。そういう意味では、鏡で区切られている内的な世界と外的な世界、それを合わせたのがさっきの外側の○の世界であって、『自分が経験可能な世界』ということになるのではないだろうか。

これは『観測可能な宇宙』という言葉に似ていて、経験可能領域は拡大されていくけれどそれと同時に反対側にある経験不可能領域がある二元(経験領域と非経験領域でもいいけど)で、その捉え方で言えば、その外側が実存的な意味での世界になる。

 

途方もないけれど、経験というものに価値を見るなら、やっぱり内外の両面に目を開いていくことなのかな。

外で得たものは内で生かされ、内で得たものは外で生かされるのだから、片側だけで見るよりも質的な変化は早いだろう。ただ、その中で迷子にならないように、自分なりの中庸は意識した方がよいのだろうし、それは飽くまで目印。揺らいでもええんやで、人間だもの的なね。

 

僕の場合はやっぱり内面に傾いてるから、元気が出たら井戸の外に冒険に行くけれど、疲れたら無理せず戻ってきて水に浸かってるくらいの気持ちってことになるのかな。水面が内外を仕切る鏡ってなんかいいね。このイメージちょっと好き。