感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

孤独の苦しみ から パニックと思考 身を任せること 内面のランドスケープの変遷 Spiritual Loneliness

あれからというもの数日間本当に苦しい思いをしたけれど、サポートを貰えたおかげで持ち直して、今は大分落ち着いてる。こういう時に頼ることのできる存在が居てくれることは、本当にかけがえのないもの。同時に、そうではない人を思うと心苦しい。

 

今回の苦しみは多分、ある意味で縛られ、ある意味で守られていたものを外したことで、感覚の質が大幅に変わったこと。そしてその感覚に基づく内的な世界が変化したこと。(実際の所は、どっちがどっちに基づいてるかは分からないけど)そしてそんな中で、急な変化にパニックになったことだった。

 

この孤独感は恐らくSpiritual Lonelinessとも呼ばれているもので、それは他の様々な孤独感とも少し違うものみたい。参考になりそうな情報どれを当たっても、「生涯のもの」「付き合っていくしかない」とあって、その絶望的だけど温かい断言に、まぁそうだろうなって思った。それが生涯のものというのは、実存的孤立という言葉もあるけど、多分それをある種の変容を通して本来性として受け入れることになるからだろう。

これ自体はある程度は、以前から受け入れてたものだった。それを忘れてしまうくらい取り乱したのは、とても急な変化だったこともあるし、まだ見えていない恐れに繋がっているからでもあるのだろう。この急な変化の質が、今回はとても大きかった。寒さという物理的な感覚、しかもずっと苦手意識があった部分にリンクしてくるから避けられないし、より深い部分に足を踏み入れた孤独は、インターステラーの惑星に留まり性格も変わってしまう宇宙飛行士とか、圏外の携帯電話とか、Frozen2で凍ったエルサとか、そんなイメージがとても合う。

 

この感覚はある意味、自分以外誰も居ないこと、声も届かないことを、自分のどこかが誰よりも理解した状態。それを頭は、どうしたらこの孤独感から抜け出せるだろうか、このままでは死んでしまうからどうにかしなきゃと思考するけど、そっちに行くとど壺に嵌る。それは誰よりも理解してるつもりだった。

 

森の中に独りで居る時がそう。パニックになったら、思考に傾いたら、鼓動が速まり、視野が狭まり、五感が偏り、不安に飲み込まれ、自分がどんどん森という環境から切り離されていく。それは森が殺しに来るということ。生存本能がそう認識するから、危険の可能性ばかりを拾い危険と察知するから、容赦のない森を認識することになる。

森と五感を通じて繋がり、自分が森の一部であり、森が自分の全体である時は、調和した五感に限りない平穏を覚える。ある程度の危険は飛び越えられるし、本当の危険を選り分けられる分別の余裕もあるし、そういう意味でも森は遊び場であり自分自身になる。

僕はそれを外の世界との関係で学んでいたはずなのに、自分の内側でまた翻弄されてしまった。どちらも同じ、環境と個の問題なのに。

人が外側を以って内側を認識し、内側を以って外側を認識するということは自然環境が内外に存在し、感情もその一部ということなのかもしれない。鏡。

 

抗わないこととは状況を受け容れること。焦らず、思考に飲まれず、環境の一部として流れに身を任せる。その勇気と余裕。突然来る諦めと解放もこっち。

 

ただこれは落ち着いた今だから見えることで、焦りの中に居る時は見えないもの。落ち着いた状態の人間のロジック。ということは、こちらばかりを求めれば、生存本能に流される自分を否定してしまうかもしれない。それはそれで違うと思う。

その苦しみがあったからサポートを頼めたことも事実だし、その苦しみがあったから後々見えてきたこともあるのだし、苦しみが無ければ様々な変容もなかった。経験が学びの師というのなら、その必死さもまた受け容れたいものだしね。痛みが生のスパイスであるように。

 

内面に自分をイメージした時のランドスケープ。

心理的な情景は移り変わった。それもまた外側の自然環境を内面に映し出している。

このブログを始めた当初は確か、僕が居たのは冬のベーリング海だった。船の上から投げ出されては冷たい感情の嵐に揉まれていたからだと思う。

その後は紛争地だった。瓦礫の中争う自分の欠片たち。いくらかのまとまりはあるけど、色んな自分や自分ではないものが生き残ろうと必死で相手である別の自分を殺そうとしていた。

井戸の中は今でも自分の居場所。それはある意味で外から隔離された安全なスペースで、その冷たく清らかな水に沈むことは癒しでもある。寂しさもあるけど、静寂がある場所。

暗闇のトンネルを抜けた後は暗闇の沼地だった。いつまで経っても抜けない、外が見えない場所。泥濘に足を取られて思うように前にも進めない。これは実存的危機の時。Dark night of the soulなどとも呼ばれているものだと思う。

でも最後にはやはり、夜明けの日差しを感じることができた。この日差しは二度感じたことがある。初めは高校の時、登校を続けることを『諦めた時』だった。自分を雁字搦めにしていたものから解かれたような、清々しい夜明け。二度目は思考側の一時的な死をもって、同じように感じた。

次に訪れたのは果てしない靄の中の世界。現実と夢の区別がつかないような期間。すべての意味を見失っていた時(今もある意味そのままだけど)。

 

そして今そこをようやく抜けて出てきたのが、視界はクリアだけど広大で何もない空間。ただ白い地面と冷たい空気と空だけがある。

果てしなく見えるから、果てしなく独り。こんなに周りがはっきり見えたことがなかったからとても混乱してしまった。どこまで行っても独りなんだと思い知らされたようで、体感とリンクするような寒さで本当にダメかと思った。大げさには書いてないよ。ストレスがきつかったせいか18年前のあの時と同じで帯状疱疹が頭に出てる。でもそれだけ辛かったから頼ることができた。珍しく被害妄想まで併発してたのに、温かく手を差し伸べてもらえた。本当に独りだったらどうなっていたか分からないけど、本当に独りだったらここまで来れてない。実にシンプル。

 

落ち着いた今は大分この環境を受け入れつつある。それでも大分、色んなものに対する感覚が違う。聴いていた曲も昭乃さんに戻ったのだけど、前よりも深く感じる曲がいくつもあるし、歌の中の孤独の色、そのグラデーションがより繊細になった気がする。それは好き。こういう景色が見れるなら、この世界も有りなのかもと思ってる。

多分前よりも孤独の寒さに沈みやすくなってはいると思うけど、それがまた感覚の変化や在り方の捉え直しにも繋がってきているし、今はある部分では独りではないから、多分、慣れる時間があれば大丈夫。ここで何を探すのか分からないけど、孤独が薄まることはなさそうだし、慣れながら流れていくしかない。

やっぱり、色んなものの形が変わった。

 

ところで数日前、Spiritual Lonelinessという言葉に行き当たった時、それを紹介しているブログの著者の電子書籍を買った。Anna LeMindという人の"THE POWER OF MISFITS"という本。多分この人のブログの焼き直し。北欧の人みたいで英語は第二言語らしく、とても読みやすい。彼女のミスフィットとしての人生は共通点が多く、随所で共感しまくりだった。

この人は孤独を社会的な孤立から生まれるSocial Loneliness、感情的な孤立から生まれるEmotional Loneliness、自分にとって意味のあることをその深みのせいで他者と共有できないIntellectual Loneliness、そして未知への憧れや帰属先のない自分から生まれるSpiritual Lonelinessに分けている。

 

www.learning-mind.com

 

これらの違いは、僕の場合は自分の変遷を思い返すとよく分かる気がする。

Social Lonelinessに関しては僕は割と早期に自分にとっては幻想だと気づいたから、あんまり苦しむことはなかったけど、一般的にはこれに苦しむ人が多いのだと思う。

Emotional Lonelinessは僕視点では皆まとまって流れて来て皆まとまってどこかへ流れて行ってしまうのがこれだと思う。これを、当の人たちは繋がりを保つために感じ、無意識に同じ方向の感情を共有しているのだと思う。個性なのかな。僕はこの孤独はあまり知らない。というのは、感情は孤立している方が楽だし自然というのが小さい頃からの感覚だから。昔から巻き込まれると生理的嫌悪感がある。

Intellectual lonelinessはとてもよくわかるし今も深まり続けてる。興味が周りとズレすぎていて、深さも違うから誰とも共有できない感覚。見ている世界が違うという異邦人感。結構苦しい。

そしてSpiritual Lonelinessはここ数年深まり続けているものだと思う。Spiritual pathとも言われる変容と内面への旅。その過程で個が深まればより他者から外れていく。それはただぼっちになっていくという類のものではなくて、個への流れの中で様々な他者の手垢の付いた概念を自分なりに捉え直すことからきているのだと思う。自分で在るために、切り離すべくして他人軸を切り離していく。自分の内側に居る他者によって苦しまないためにそれらを脱ぎ捨て内面から孤独になっていく。だから生涯続く孤独なのだとすぐに納得できたし、じゃあしょうがないねって思った。

僕の中では下の二つが深まり続けるから、増幅し合ってる部分もあるのだろうと思う。

 

このことに関してはもっと書きたいことがあった気がするから、また次飽きてなければ書くと思う。

最近考え過ぎなんじゃないかって言ってもらい、確かにそうだなって思った。一時期考えるのをある意味放棄したのだけど、やっぱり考えるのが好きなんだなって思ってからこっちに傾きが戻ってる。前ほど思考一辺倒ではないとは思うのだけど。でも確かに、インスピレーションは思考の外側から来るし、思考の質も感覚の質も落ちるだろうから、バランス的な意味でもまた少し意識的に頭を休めようと思った。

 

 

これずっと好きなんだけど、今はもっと好きが深まってる。


www.youtube.com

この感覚なの。やっぱり好きだなぁ。調和できるだろうか。