感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

暗闇仲間の見送り、謝意を伝えたこと 苦痛と死、代わりたい気持ち サバイバーズ・ギルト

youtubeで感情を外に出すセラピーを受けたりする様子を隠すことなくアップしている人が居て、僕も当時はその人と同じくDark Night of the Soulとか色んな名で呼ばれる変容の時期だったので参考にさせて頂いていた。参考という部分もあり、耐え難い孤独な暗闇の中から、同じように暗闇の中で藻掻く人がいることを見て救われてもいた。

結構壮絶な内容だったのでアップロードするのは勇気のいることだったと思う。それでもその人は自らの向かうSpiritual pathのために発信の必要性を感じてそれをしていたらしい。(その点は僕も同じようなことを感じていて、だからこのブログが今ここにある)

 

その人がつい最近「さようならyoutube」というような題の短い動画をアップロードしていたので見てみると、その題名の通りアップロードをやめるということだった。それは消極的な意味ではなく、次のステージに移ったこと、そしてそこではバウンダリーやプライバシーがより意味を持つような気がすることなんかを話してた。

とても感慨深い。彼女は明確に自分の進む道をKundalini Awakeningと位置付けてあらゆる手法を用いて自分の感情と向き合ってきて、その一環として6年間動画のアップロードを続け、そして今次の段階に進んでいった。僕は後半の4年くらいかな、彼女の動画に救われたこともあって、今はその段階は一応脱している。僕がどういう方向に進むのかは分からないけど、人生というスパンから見ればXの交差点のように短い期間だけど、とても共感的な時間を過ごし(一方通行だけど)、なんていうのかな、やっぱり見送るような気持ちでいっぱい。心から旅の無事というか、無事じゃないな。無事かどうかは大事なことじゃない。旅の行く末の幸運を願う気持ち。

 

それで僕も一方的にではあるけれどとても助けてもらったので、ありがとうコメントを書こうと思ったのだけど、コメント欄がオフになっていた。それでもどうにか謝意は伝えたかったので、プロフィールに入ってみるとブログに繋がり、そこにもコメント欄は無かったのだけどemailアドレスがあって、そこにメールを送ってみた。

折角メールだったから当時僕も同じ状況だったことや彼女の動画に救われたこと、あとなんて訳したらいいのか分からないけど、あなたにとって意味深い人生の旅を願ってます的なことを書いて送った。別に意味なんてなくてもいいのだけど、その場合意味のないことがその人にとって意味深いわけで…それはどうでもいいけどね。

 

そしたら結構しっかりした返信をもらってしまって、それに対する返信をしようかどうか迷ったのだけどやめといた。それが失礼なのかちょっと気掛かりだけど、やっぱり伝えたいことを伝えた上では蛇足になるような気がするし。

 

気持ちを伝えることができたことがとても嬉しいし、それを喜んでくれたことも嬉しいし、そして完全な一方通行ではなくなったことも感慨深い。

それはいつもの寂しい見送りの風景のはずなのだけど、希望が香る穏やかな曙光の射す夜明けの分かれ道で。僕まで何だか頑張れるような気持ちになる。見送ってくれたから。

 

真っ暗な冷たい孤独な中でもこうやって、人種や文化の垣根を越えてより人間的な部分での繋がりが生まれるインターネットは、まるで広大きな海のよう。ボトルも流さなければ届かないのだろうなって。

 

 

あんまりこう、時事ネタに触れたくはないけど、沢でそれらしい骨が見つかったっていう行方不明の女の子。

どんなに辛い思い、心細い思い、怖い思い、痛い思い、寒い思いをしたのだろう。どれだけの間意識があったのだろうか。大人よりも体感や感情の比重が大きい子供が、それも1分、1時間の長さが大人よりずっとずっと長い子供が、そんな中にどれだけ長い間居たのだろう。

広大な森の中で迷子になってしまう時の感覚って大人だって慣れてなければ正気を保てるようなものじゃない。足の着くプールで溺れてしまうのと同じになる。

それらを重ねてしまうと、ただただ辛いし悲しくて吐き気までしてくる。

人というものを思えばいつもそう。楽しい生き様ばかり見れればどんなに良いことだろう。

 

代わってあげられればなんて思ったところでどれだけ無意味なことかはわかるのだけど、いつも苛まれるのは何故こういう悲痛な死がある中で僕は生き残ってしまったのだろうということ。フェアじゃない。これはしょっちゅう思ってきた。

すんでまで行って、でも生きている自分が、その偶然をまだ受け入れ切れていないのかもしれない。僕がその偶然を拾ったせいで誰かが拾えなかったわけではないのだろうけど、だけどさ。

要するに僕は自分の境遇を彼ら苦痛の末に死んでいった人たちと同列視している部分があって、挙句結果に納得がいってない訳だ。

どうしたら報いることができるのか苛まれるし、こうして苛まれることそのものも拾ったことの報いなのかもしれない。拾った?違う。だからフェアじゃないってなる。自ら拾ったわけではないから。偶然を与えられた結果のように捉えてるから…

僕は選んでない。じゃあ何で僕が生き残った自責に苛まれるの?全然関係ないくせに勝手に加害者になろうとする。被害者意識を盾に。

 

でもこれって何かで読んだものに似てる。遭難か何かの生き残りの人の話だっけ。名称あるのかな。あった。『サバイバーズ・ギルト』…

これダメでしょ…PTSDの症状の一つと見なされるだって。結局そこに戻るの…

自己犠牲・無償の奉仕に走りがちな振る舞い

これ超分かる。

 

「最も無価値である自分の命で誰かが助かるならそれでいい」という自殺同然のネガティブなモノであることが多い。

これもわかるけど、それ以前にそうしないと自分が生きていることが許されないから。だってそうなんだよ。理由がつかないんだもん。彼らが死んで自分が生きてることの理由が。そもそも理由なんてない?それも分かる。でもそれを受け入れることの残酷さが分かる?やばいなんか泣きそう。泣けないくせに。

誰かが助かることでそこに理由がつくことは、自分が生きながらえてしまったことに意味が生まれることは、最早自分の存在価値と同義かそれ以上になる。だってそうでしょ?本当なら生きてなかったんだもん。偶々繋がっただけで。だからそれだけのものと引き換えなら死んでもいいって思う。喜んで差し出すと思う。僕の場合はね。

笑える。誰よりも死後の無を恐れている癖に。

自己矛盾の塊。欺瞞の産物。蜃気楼に浮かぶ砂の城。

 

意味ある死、気高い死、そういうものに対する憧れを持っている。死は生であって、死生観は僕そのものを構成する大きな価値観。それを今更またPTSDに結び付けられちゃったら僕はいったい何なの?ってなる。いつまで縛られればいいの?そしてようやく築いたものをまた崩さなきゃいけないの?

歪みがあるのは気付いてたのに…でもポンっとここで行き当たるとは思わなかった。これにたどり着いたのは良かったのかもしれない。いや、良かったはず。今は素直にそう思いきれないけれど。崩すか縛られ続けるかの二択ならどちらを選ぶかは決まってる。

でも今はギブアップさせて。今日はもう無理。今直視したら多分吐く。

これも時間がかかるよ…どれもこれも、一体何なんだろう。何で今更…