車がまだ直らない。
修理費は結局向こうの保険会社が出すことになったからいいんだけど、直るまでの子供の送り迎えに掛かる費用とかその他諸々とか結構かかる。同僚おじいちゃんは「非は向こうにあるのだからもっと主張して不便を被る分相手に請求しなきゃダメだ」って言うんだけど、なんか面倒くさいんだよね。我慢すればいいやっていういつもの消極的な思考だから、僕にとっては課題なのだろうけど。人もお金も含めて面倒ごとで大切な日常の水面を乱したくないって思うのは悪いことなのだろうか。面倒ごとがあっても乱れなければいいのだろうけど、残念ながら僕は乱れる人間でそこをどうこうできるタイプでもないのだし。
そりゃ、損は損だけどさ、ただでさえ荒れやすい精神的な平穏を面倒ごとでかき乱される方がもっと損で…ねぇ…それに折角便利と不便の対比を再確認しているというか、不便の良さ、便利経験による不便感の発生、なんていうことを思いながら楽しんでもいるのに。
こんなこと言っても理解されないだろうし、下手したら余計面倒くさい垂訓が始まるだろうから言わないけどさ。生きてるだけで面倒くさいって思ってしまうのはそういう部分なんだよなぁ。
最近またプロレスを見てるのだけど、男女ともに華やかな衣装っていいよね。なんかこう、ランツクネヒトの衣装とか部族の戦化粧みたい。勿論戦地に赴くのと観客ありきの興行を一緒くたにするのもあれだけど、人が戦に何を見るのかって考えると面白い。士気から死生観、色んなものがあるのだろうけど、何かこう、戦いを前にして湧き上がるものがあるんだろうなって。
プロレスって受けの美学とも言われるけど、勝ち負けよりいかに試合の中で魅せるかの世界。客商売とスポーツ、そこに潜むジレンマから個々の選手や団体の中で生まれる哲学のようなものがとっても魅力的だと思う。元々勝ち負けより~って思考だから合うのかな。
僕が好きな選手は少し前だとエル・サムライとかケンドー・カシンとか。全日の時の武藤も好きだったな。今はこれと言って好きな選手がいるわけでもないけど。
何故か『せがれいじり』の動画を見て過ごした週末。
せがれいじりをプレイしたのは中学生ぐらいの時。確かしばらくしてもう一回プレイしたのだけど。
シュールお馬鹿で捉えどころがない世界観だから適当に作ったんじゃないかって言われるけど、僕はこの作品ってすごいと思うし、理想だと感じる。ある意味現実もこういう類のものなんじゃないかとか。
仮にある意味適当に作ったにしても、その小さな適当が積み重ねでこれだけ調和した一つの世界としての滅茶苦茶になるってとても凄いことだと思う。
適当っていうより『何となく』なんだよね。ギャグも物語りも。『こんな感じ』っていうものの集まり。なんかこう、せがれいじりに対してこんな言葉を使うのもあれだけど、ある意味僕としては学ぶものな気がする。
お馬鹿というコンセプトのもとに『自分なり』の『こんな感じ』を妥協なく表現した世界。適当だから妥協しまくりじゃんって思われるかもしれないけど、それは重視する部分の違いであってですね。追求とはそういうものだと思う。
いや、作者が実際何を思って作ったのかは知らないけどね。
そういえば続編はやったことないんだよね。やってみたいなぁ。
そういえばさっきyoutube見ていて思ったんだけど、youtube動画のサムネやタイトルって、特に収益を出したい動画に関してはクリックさせるところが勝負な訳じゃん?webページや記事なんかもそうだけど、そういうクリックさせようとしてるものってなんかこう、僕の求めてる内容じゃないことばかり。だから普段そういうのは開かないし、即興味なしボタン押すんだけど。
それはなんでだろうって考えると、多くの人に開かせようとサムネやタイトルにまで労力をつぎ込むということは、中身も多くの人に見てもらおうって内容になってるわけだよね。型通りだったり、効果音とかテロップとか変な部分に凝ってたり、ピンポイントでそれありきなことをしていたり。
確かに多くに見せようとするとそうなるのだろうけど、お洋服ばかりで本人不在みたいな感じがする。作者の表現じゃないというか、表現の方向性の問題というか。
見る側を意識するしないは別として、見る側にどう感じさせようっていう部分が前に出てるのは個人的に苦手。さっきのせがれいじりにしても、作者はうんこが面白いからうんこを表現する、だからこちらは自由な感想の中から面白いも選択できる。でもこれがうんこが面白いと感じる表現になると、誘導による誘導で狭苦しいしウザいって感じちゃう。子供の頃からテレビ番組をあまり見なかったのもそれが嫌いだったから。
それがこう、サムネやタイトルにもう滲み出てる、というかそういう動画ですよ、そういう記事ですよって自己紹介のようになってる感じ。
そういう意味ではさ、よく「本を表紙で判断するな」って言うけど、動画やwebページは表紙である程度判断できちゃうのではないだろうか。先入観は敵とはいえ。はい。
ここまで昨日書いた
今日は夕飯時に珍しく母から僕指名で電話がかかってきた。その段階で何となくどっちかなって予想はついてしまったのだけど、実家の猫のN(仮)が危篤らしい。
上手く言えない感情。ペットロス(この言葉嫌い。僕にとってはペットじゃない)経験者として勿論そういう恐怖もあるのだと思うけど、Nの場合はもう21歳で、糖尿持ちで危ないことも何度もあったからある程度整理がついてしまっているというのもあるのかもしれない。身体が弱かった外出好きの猫で21歳はかなりおじいちゃんだよね。
勿論また元気になって欲しいって気持ちもあるのだけど、もうよぼよぼで耳も聞こえなくなっていて、インスリン打ったり色々ボロボロなのもあるから、一時的な回復を願うのも酷なのかもとも思ってしまう。また会いたいけど…
猫って感覚的には同居人なのだけど、Nは瀕死で拾われてきた仔猫の時からの付き合いで、僕が日本に居た時は毎晩一緒に寝てたのね、僕の布団が好きみたいで。だから兄弟的な感覚もあって。2年ぶりぐらいに一時帰国しても、喜ぶわけでも素っ気なくなるわけでもなく、いつものようにグルグル喉鳴らしながら膝に座ってくれる。次は会えないかもって、そんなことを毎回思いながらこちらに戻ってくるのだけど、それでもやっぱり帰国の度会えて。
もしかしたら今回もやり過ごしてまた会えるかもしれないから、今は過度に考えたくないのだけど。でも考えちゃう。次も居て欲しいな。また一緒に寝たい。重いし暑いんだけどね。