感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

行動制限から 集団

ウイルス騒ぎ第二波により昨日からまた行動制限。正直何がしたいのか分からない部分が多いけど、テレワークなのは嬉しい。何がしたいのか分からないっていうのは僕の主観なのだけど、何ていうのかな、目的っていう目的はないのだと思う。いや、政府にとっての目的は単に批判をかわすことであって、ここでは声の大きい国民が力を持ってるからなのかな。

ここで身をもって感じるのは、日本と違って主流ばかりだということだ。集団の感情の流れが一直線で反流はほぼ起きないし、石は少ない上に流される。ずっと植民地だったからなのか、国民性なのか。日本でいう意識高い系と呼ばれる人たち、それに似てる。そこ止まり、というのではなく、多分ここではそうなってしまう。見かけ上は。

 

僕は『集団の共有する』感情、例えば恐怖、それに流されない石のような存在に理性を見ていて、でも皆が流れて行ってしまうから寂しいと感じるのかな。個々の感情は大切であるし、集団で何かを共有することも有意義だとは思う。でも理性は集団の感情によって土台から流されてしまっていいものだとは僕は思わない。例え主張が何であれ、確固とした地盤として機能しているのならそれでいいとも思う。

でもこれは飽くまで僕の見え方だ。集団は流れるものであるし、彼ら一人一人も役割を演じている。それを集団的な感覚を置き忘れた僕がとやかく言うことは出来ない。でもいかにも理性的であるような顔をして不安や恐怖に支配された理屈を押し付けないでくれと思ってしまうけど、僕がそう思うということはお互い様なのだろう。

 

僕が一番気に食わないのは、オフィスや外での会話で、不安がっている人達と会話する時にさも不安を共有しているかのような態度で「わー、怖いね」とか言っている自分自身の姿。ペルソナだか何だか知らないけど、病気じゃないの?って思うね。根本から嘘つきなんだろうな。だから素直さや純粋さに憧れるんだろう。

そんなんだから会話するだけでストレスが溜まってしょうがない。テレワークなのはいいとして、それが全体的な、それでいて僕は中に居ない流れによって家に閉じ込められるような感覚がして、それがまたイラっとする。せめて海とか森に行ければいいのだけど、ずっと家に居るとなると、無いはずの圧力に苛まれることになりそう。無いはず?あるから閉じ込められるんじゃないか。

 

納得のいく説明があれば素直に従うのに。って言って素直に従うはずがないのだけど。でも説明の努力は義務ではないだろうか。「分かれ」ってその態度。素直に従うはずがないのは、納得のいく説明が与えられないことが端から明確であるからなんだろうね。

だってそうでしょ。その説明は既に流れているのだから。同じく流れている人から見るから相対的に止まって見えるのであって、流れている同士等速だから彼らにとっての納得がいく説明は納得がいくのであって。だからその説明は既に、端からこちらにとっては納得がいかないものであるって。

互いにその外に出れば「なーんだ」ってことなのだろうけどね。

 

マスク着用拒否とかする人の気持ちが何となくわかる気がする。

"The Crowd is Untruth"の世界。感覚的には「"その"理屈じゃない」のだと思う。

 

まぁ、どちらにとっても自分(または自分達、側)にとってのTruthがあるのが問題なのだろうけど。

僕はそとづらはいいから着用拒否とかそこまでしないよ?だから自分に腹が立つの。Untruthだと感じながら相手側にとってのTruthに合わせようとする浅ましさ。無限ループ入りそう。いったん休憩。

 

理性が両者の懸け橋になれないのは、結局お互い別のTruthを生むそれがあるからで、じゃあ単に流れる速度の違いの問題なのだろうか。

キルケゴールやル・ボンの集団に対する見方は僕にとってとても自然で馴染み深いのだけど、集団に対する単独者という見方に陥れば単独者自身が自らをその定義に当て嵌め、概念に縛られかねないということ。それは何となく、僕は嫌なのです。

 

結局のところ、全ては僕の内側の問題。僕にとって『集団』というのは、多分生涯の課題の一つだと思う。

 

さっき見た動画。


For Those Who Don't Fit In Anywhere...

これ、その通りだなぁと思う。自分が思ってることが誰かの言葉としてまとまってるのを見ると感動する。というか安心かな。嬉しい。

フィットインできないのなら、集団の外側に居る自分を軸として、あらゆる集団、或いは個々の人々とどう関わっていくかを追求すべきだと思う。