見失ってばかりだ。全てが靄に包まれるこの感覚。慣れ親しんだ世界。
日はまた昇るというけれど、日はまた沈むの方がしっくりくるんだなぁ。
僕の場合はそもそも見失わないような軸があるのか、という部分が問題だろう。
ただそこは仕方がない。わがままな僕は腑に落ちてもいない軸など拒絶してしまうだろうし。だってそれは欺瞞だと思うから。経験を介して腑に落ちればいいのだけど、そこまでにとても時間がかかってしまう。
自らの感情の海に沈み揉みくちゃになっている自分もいれば、全てをただ虚無と傍観してる自分もいる。その温度差に戸惑いながらまた一日が過ぎて行く。その繰り返し。
一時的に靄が晴れても、長いスパンで見ればまた靄に包まれる。それもまた繰り返し。いい加減それを受け入れるべきなのではないだろうか。でもその先にあるのは虚無でしかないから、結局人は足掻かなければならない。
ああシーシュポス…繰り返し。
やっぱり罪人なのかなぁ。
ほら、そうやって勝手に苦痛を認識して勝手に苦しんでる癖に被害者ぶる。被害者?罪人?
でも苦しいんだもん…
(原罪を思いついた人は凄いと思う。その概念にどれだけの人が救われたのだろう。これも軸の一つだと思う。)
大体何で虚無か苦痛の二択なの?何でそうなっちゃうんだろう。何でただ楽しく生きられないの?ただ今を過ごすことができないの?
今を生きることが難しいのは、僕が何かを置き忘れてきているからだろうか?それとも、僕はそもそもが過去と今の狭間の住民なのだろうか?そんなことすらまだわからない。
冷たい抱き枕。致命的なまでに温もりのかけらもない。でも何かを抱かずに眠るのは何かが胸を吹き抜けていくようで寒過ぎる。熱帯なのにね。
人肌の温度の抱き枕を作ったら売れるかな?人みたいな形にして。
それこそ人の欲求に対する冒涜だろうけどね。救うことの罪。頼ることの弊害。こうやって苦痛を美化して、また溺れていくんだろうなぁ。
外の世界も変わらない。Covid19、次はウクライナ。偏ったまま過熱しては移って、その繰り返し。ずっと変わらない。
沸騰するお湯を遠くから眺める水のように、ただ室温のままあることを意識させられる。その寂しさと安心感。
そういえば今日は仕事関係でトラブルがあったらしいのだけどわざと電話に出なかった。3時間後に電話して忙しいって言って終わり。
対価も十分に払わないのならいいように使われてたまるかって思って。現場に居た人は困っただろうし、申し訳なさも感じたけど、だからって僕が休日にホイホイ電話取って行っちゃうのも良くないと思った。快く行けるなら別だけど絶対嫌な気分になるし。
まぁ、それだけ今の僕の中に余裕がないのだろうなとも思うけど、珍しくNOが示せたのは良かったと思う。
最近知ったDavid Nevueという人。この人の作る曲が凄く好き。どの曲もメロディラインが凄く奥の方に触れてくる。
これ一番好き。
雲のタイムラプスっていうのも凄く良い。僕も雲眺めるの大好きだから見惚れちゃう。
雲って本当に刻々と顔色が変わって、空や風との兼ね合いも含めて人の感情みたい。
タイムラプスもスローモーションも人を超えた感覚で自然を捉えてるみたいで、何だか不思議な気持ちになる。何か、憧れてるものに近い。
前半の軽やかでスムースな感じも好きだし、中盤以降の寂しげな、時折激情的な起伏にはそのまま持っていかれそうになる。何だか分からない感情ごと引きずり出される感じが凄い好き。
この二曲もお気に入り。
上の曲は"Overcome"下の曲は"Winding Down"っていうアルバムに入ってて、どちらも好きな曲がいっぱい。ぼーっと聴きながら浸れる。
そういえばこの人は自分のチャンネルの動画で話てるのを聞いてると、結構しっかりした信仰心とスピリチュアル観を持っているようで、僕からすればとても軸のある人。そんな人がこういう曲を作るんだなぁって思うとやっぱり軸は内面においてはそこまで関係がないのかもと思えてくる。
無理に軽やかになろうとするなということなのかな。
さて、井戸の中に帰ります。なんて言うと貞子みたい。