感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

手のひら から 双方向、受容、世界、子供 "Water Ripples" Enno Aare

手のひらが優しく柔らかいのは、手のひらが優しさや柔らかさを感じることができるだけ繊細だからだ。そんな手のひらだって自らが感じ、受ける姿勢でなければ横暴で硬い手のひらになる。愛撫とビンタの違いのような。どっちも兼ね備えたビンタもあるし、ビンタまでいかなくても、身勝手な振る舞いであれば同じ。

受け容れること。

探るような指先さえも、相手を知り学ぼうとする指先と自分勝手に自分の求める物を触ろうとする指先では全く違うものだよね。それは受容の姿勢の有無ではないだろうか。

 

それは触れられる方も同じで、触れられる方が閉ざしていればやはり冷たく固いものだ。拒絶。双方向で初めて柔らかい安心感が生まれる。双方向の受容。

 

ここまで見るとなんかエッチなこと考えてるみたいだけど、別にそういうわけじゃなくて子供の頃頭を撫でられた時のことを思い浮かべてた。自分が撫でる感覚の鏡に映しながら。

まぁでもエッチなことでも同じなんだろうけどね。センシュアル、性感、その辺りにある美なんかも。

 

双方向であること、受容。これは触覚に限ったことではない。例えば目だってそうだ。見たものを受け入れている目なのか、一方的な視線なのか。温かい目、包み込むような目。吸い込まれるような目。撫でまわすような目になると身勝手さがあるけど。

目と目の場合はより直接的。目が嘘を吐かないのはそういう部分なのだろう。目は隠しようがない部分だから。

 

「何で目を見ないの」って言うじゃん、「その目だから見れないの」って言いたくなる。言えないけど。大人はよく子供に「目を見なさい」って言うけど、礼儀以前にそんな目で見てたら子供が拒絶するのは当たり前だよね。だって大人側が先に条件付きで見ていて、目を見ない子供を拒絶してるのだから。ポツダム宣言的な不平等感。

その無理矢理見させた目でドラゴンボールのかめはめ波の押し合いみたいなのを始めるのは何なんだろうか。格闘技や不良の睨み合い的な。でもこれ動物もやるのか。猫とかよくやってるし、メスをかけたオス同士の闘い系の映像でもよく睨み合いで勝敗決しちゃったりね。目は奥が深い。

 

ヒトは欺くために表情を発達させてきたとどこかで読んだが、そればかりではないと思う。伝える手段としての表情。それもまた双方向のやり取りを深めたのではないだろうか。これは視覚、その鏡。

 

鼻。鼻になると人間は多くの動物に比べて弱いのかもと思ってしまうけど、それでもやはり本能的な部分で鼻は大きな役割を担ってると思う。加齢臭とかもそうだし、逆に好きな人の匂いなんていうのも。

双方向の匂いの受容というと赤ちゃんとお母さんが一番に思い浮かぶ。母の胸の匂いに安心する赤ちゃんと、赤ちゃんの頭の匂いに安心する母親。丁度いい位置に来るんだよね。本能ってどっちが先に来てるんだろう。好きだからいい匂いに感じるのか、いい匂いだから好きと感じるのか。その限りではないのだろうけど。

 

耳、音の受容。声は勿論、音なんかも相手への意識で出し方が変わるから、これも双方向性が大きいと思う。声、言葉でやり取りする動物なのだから当たり前と言えばそうだと思う。赤ちゃんの泣き声にお母さんがやられちゃうのも一方通行だからなのかも。

 

口は触覚も繊細だからともかく、味覚はどうなんだろう。味に双方向なものはないとも言い切れないのかな。わかんない。でも複合的なものは多分色々あるよね。

 

双方向の受容。相手から見て柔らかいとか優しいとか、それは結果でしかない。それを生むのは飽くまで主体的な受容の態度ではないだろうか。

受容の態度。鏡を通して辛く激しいものが返って来るよりは、初めは辛くても受け容れる努力をした方が長い目で見れば安らかな方に向かう気がする。それを求めるなら。

 

ただこの世界はあまりにも辛すぎる。それも反射して返ってきてるものなの?外にあるということは内に持っているから?

解釈はどうとでもできるのだろうけど…

 

問題はね、例えば無理やりの姦通で石打にされる女性をイメージしたとして、石を投げる人の気持ちの理解を試みたとして、石を投げられる人の気持ちの理解を試みたとして、その家族の複雑な心境の理解を試みたとして、レイプする人間の衝動やらの理解を試みたとして、それを見た世論の憤りの理解を試みたとして、その憤りに対する憤りの理解を試みたとして、それを重ねれば重ねるほどになんて世界なんだろう、どうしてこんなデザイン(結果的なものでも)なんだろう、人間ってどうしてっていう絶望の方向に進んでしまうことで。それをおいそれと「そういうものなんだね」って受け入れるには僕の中では色んなものが絡みつきすぎてしまっている。

 

例えば3歳児なら、理解という意味では理解ではないのかもしれないけど、そういう軸とは別に物事を見つめられるだろうし、世界と自分が切り離されていない分、受け入れるまでもなく一つとして在ることができるのではないだろうか。

そもそも僕が上で書いたような理解の努力なんてもの自体が、手の届かない虹を掴もうとするようにある意味無意味で馬鹿げていて根本から誤っているかもしれないものである以上、理解という意味での理解を求めることにどこまでの意味があるだろうか?

 

やっぱりその部分がこう、うーん。

経験とは何なのだろう。知識とは、知能とは。

全てを捨てて幼児退行すれば僕の中の問題は解決するのかもしれないけれど、振出しに戻ったらまた始めなくてはならなくなってしまうかもしれないし、だから子供の心に学びたいということなのだろうか。よくわかんないけど。

 

 

ところでもう年末ですね。早い。年の瀬にいったい何を書いてるんだろうか。まぁいいや。

僕は今年は体調を崩しやすい一年でした。最近は毎日蕁麻疹が出てる。なんでだろう。運動を習慣づけてから腰とか首は良くなったんだけどなぁ。皆さん良いお年をお迎えくださいね。

 

そうそう、今日とっても好きな曲に出会ったの。


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とってもこう、しゅき。共振。