感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

内的経験を元にした自己 人間像と基準 現象としての自分

臓器が、そして腸内細菌が、その他の細胞や細菌、ウイルスが、個々にそれぞれ生存意志を持っていて、彼らの存在が思考に影響を与えるとするなら、僕自身はやはり環境の中に在る環境として、複数の環境を構成して成り立っているのだろう。

僕の意識も無意識も一つの、または複数の複雑な環境が集合として生存するために生み出す現象に過ぎず、集合知的な結果に過ぎないのかもしれない。

 

それはまたより大きな環境という視点、小さな環境という視点、そして更には宇宙規模の環境という視点まで共通の、環境の連鎖という認識のもとに繋がるものだ。

そしてそのニヒリズム的な視点は、人間本位という欺瞞的思考によって様々なものが成り立つ世界における苦悩から僕を解放してくれるものでもある。

それは楽観的でも積極的でもなんでも良くて、ただ内的な経験を通しての見方から、その視点はぴったり。なぜ皆の見方が人間が中心になるのかは小学校時代からの疑問だった。自然の中の自分なのにって。

虚無主義という名前が付けられる意味が分からないぐらいに僕にとっては当たり前の世界の見え方。初めて知った時はそうじゃない人が居ることに驚いた。

 

内観を通し自己の内側の世界の儚さを経験し、それを通し外側の世界における自己の存在に迷うような人にとっては、『確固たる自分』という自己認識が難しいのかもしれない。それもまた捉え方、性質によるものだろう。

 

そういった人は、気質的に優位な機能を主体に、自分の内側の世界の経験を基礎として物事を捉えている。その感情や本能的衝動、またはそれ以外のものによる影響を強く受ける(影響そのものでもある)その世界の脆さ、掴みどころのなさ、変わり易さ、繊細さ、美しさ、重苦しさや軽さ、様々なものが同時に混在し得る、常に移り変わる世界。

 

様々な地形をもってしても止まらず流れ続ける川の水のようであり

おおらかさを持ちながらも常に顔色を変える海のようであり

風に舞い不規則に揺れ落ちる枯葉のようであり

暗闇の中景色を焼き付ける雷の閃光のようであり

何かを回る銀河を回る太陽を回りながら回転する地球のようであり

長い年月のスパンで脈動する地殻のようであり

色んな匂いを鼻先に運び肌をくすぐる風のようであり

潮が満ちると見えなくなってしまう岩礁のようであり

透明で存在しないようでもその流れを感じさせる空気のようであり

谷間に流れる霧の中を歩く一匹のイノシシのようであり

森の向こう側に見える色の境目のない一本の虹のようであり

硬い殻に包まれていても中身はぬめぬめして生臭い牡蠣のようであり (食べると高確率であたる!)

 

食べ物シリーズに移行するとキリがなくなるので終わり

僕はこのような主観を通して世界を、そして自分を見ている。

 

でも一般的な世間の認識の人間像は全く別だ。もっとハッキリとしている。

客観的な世界を反映した『確固とした人間像』、そしてそれを基礎として築き上げる様々な言葉、意識、態度、前提、人というもの。

 

強要され続けるそれを理解しようと試みれば試みるほど、捉えようのない自己が否定されていく上に、外からの言葉全てに攻撃を受けるようになるんじゃないかなって思う。

そのはっきりとした基準からすると、僕は人間ではないわけで。その(彼らの言う)人間の基準に満たない自分は、その基準に居る限りは否定され続けなければいけなくなってしまう。そんなハッキリしてないんだもん。

だから僕は人間じゃなくていい。寧ろその基準が人間なら人間でありたくないわけです。

その基準を受け止めようと生きる人、更には比較に苦しむ人は想像を絶する苦しみを受けているのだろう。凄いなって思う。僕には真似できない。

 

自分が当たり前に自分として存在し得ないことが起こるのも、ある種の自己認識が当たり前となっているからであって、そしてそれを基礎として色んな物事の共通認識が出来上がって通念的に散布されてるからだと思うんですね。さっきのハッキリとした人間像のような。

その考え方のフィルターを通すと僕という存在はテクスチャー表示エラー的なものを起こすわけです。それで自己否定するなという方が無理があるわけで。

それは認識がおかしいとか、しっかり認識できてないとかの問題じゃなくて、その認識自体があってないんだと思う。

 

その辺はニヒリズムのような視点に立つとスッと楽になる人が世界中に大勢いることから(Youtubeのコメントなんか見てもそう。例えばこの動画)も見て取れる気がする。

それだけその基準に、その人間主体の考え方やはっきりとした人間像に無意識の負担を強いられている人がいるのだろう。

 

 

止め処なく浮かび上がる幻想を見ながらそれを元に世界を見て、自分をも見ている。

それが悪いとは感じない。むしろ数年前に認めてから楽になった。

なら、自分の存在もいっそ単なる現象や連鎖する環境として捉えたっていいのではないだろうか。意識も自我も経験も存在も行動も含めて、そういうものだと。できないことをやろうとすることも、何かを目指すのも、夢ばかり見ていることも、単なる現象であり結果。それ自体の無意味に立って初めて、自分という集合知としてでも、人類という群れの一部としてでも、魂としてでも心としてでも本能としてでもなんでもいいけど、自然と意志を持って生きて然る世界が見えるのではないだろうか。

 

勿論どこかの国の政治のように、一枚岩じゃないどころかぐちゃぐちゃだから迷いも沢山あるだろうけど、先ずは自分の中のそれぞれが基本的に共有する個体としての生存という部分から始めればいいだろう。生きる為の行動から、自分の内側の様々な意見を整えていけばいいと思う。いずれ、自分の内側の自分たちが納得する、情熱を燃やすことが出来る、群れの中の個体としての役割、集団の中の人としての役割も見えるかもしれない。

外の干渉を元に自分という存在を個体としてジャッジする前に、自分の内側の構成要素たちの意見を聞いてあげることで、徐々に一人の人間としての一体感を築いていけるかもしれない。

 

大体一般的な言説の逆をやると良いことが分かってきた。機能的に逆、裏、影を主体に生きているから、その逆が合うのは理に適う。

 

 

前提として気質による捉え方の違いや優先する機能の違いがあるので、全ての人に勧められるわけではないけれど、僕と似たようなタイプの迷子さんはいっそ現象の複合になってしまったらどうでしょう。合わなければまた変えればいいだけだしね。