感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

「疲れた」と人 夢のこと 『赤い砂漠』

最近あんまり書いてなかった。書くならゆっくり一人の時間に書きたくて、でもその時間は眠いみたいな。

今はまたこちらはロックダウンだから収入のこと考えないといけないんだけど、中々…お仕事行かなくていいのはいいんだけどね。

何書こうかな。思い浮かぶものはあるんだけど突き詰める気力が足りない。そうなんだー。でもいつもそうかも。

 

そうそう、最近映画あんまり観てなかったんだけどこの前久々に観た。20代までは映画大好きだったんだけど、最近はなんかこう観る前に疲れることを予感してしまうというか…映画ってハマると凄く感動するし色んなものを得るけど、特に初めて観る映画はやっぱり消耗も激しい気がする。気力使うし集中力も要るし情報量多いし。

それを先に予感しちゃって億劫みたいな。

まぁでも新しいものに触れるってことは大体そういうもので、これが過度になるとおじいちゃんになっちゃいそうと思うね。

 

多分興味がまだ内向きっていうのもあるんだよね。いや、ちょっと違うかな。外で得たものを使って内側を掘ってたけど、前ほど狂気的に内側を掘ろうという段階ではないっていうのもあるのかな。今はただ井戸の中に浸ってる感じ。

その内また別の形で興味も外に向くだろうとは思うんだけど、あんまり長いとやっぱり不安になる。今は外側にあんまり価値が見えない。疲れた。疲れた?うーん。

いつも疲れてるけどその疲れじゃなくてなんかこう、生き方の問題なのかな。外側の色んなものを見て浮かぶのがもう疲れた的な。結局そこ?というかそこまで色んな事に関わった訳でもないじゃん?でも色んな景色は見たいな。そうだ、疲れたって感覚の時に浮かぶ景色にはいつも人がいる。人、社会、国、文明。忙しいんだよなぁ。

景色、自然とその中のstillnessっていうか、その雄大な速度の中なら疲れない。それは多分その静寂が自分の中のそれと重なっているからだと思う。人々の中は忙しいし、ある程度合わせなければならないし、合わせれば揺れるし、その辺りが難しいんだろうね。

社会も人々も見るだけで疲れたって感じるのは、結局のところ実際疲れたからなんだろうか。関わってないところも結局、人々との関係という意味では同じことなのだろう。別に人嫌いって訳じゃないよ?1対1なら煩わしさは少ないし…複数いると巻き込まれるから。巻き込まれるとはまた被害妄想じみたものが出てきたけど、まぁでもそうなっちゃうんだよなぁ。例えばどんなに嫌な人でも、どんなに合わない人でも、真に1対1であるならそんなに嫌な相手にはならないはずなのにとは思う。有り得ない仮定だよね。でも本当にそう思う。だってみんな他との関わりの中に生きてるから僕にとって嫌なことをしてくるわけで、それが無ければその行動をする意味もなくなる。極論を言えば嫌な人などいない。と思いたいだけなのかもしれないけど。

何でこんな面倒くさいんだろう。

 

まぁぼちぼちやっていこう…

 

そういえば昨日高校時代の奴らが出る夢を見た。思い出したくもないんだけどね。

一番印象に残ってるシーンがあってね。タイマンという意味の分からない闘いをやらされることがあって、あの頃は何度かそいつに腕ひしぎ逆十字固めをやられたの。僕はほぼ無抵抗だった。体格差もあるし、ちゃんとやったところでどうなるわけじゃないし。ほんのちょっと大げさにダメージを受けることで早く終わるから、そのことばかり考えてた。って言ってもボロボロだけど。彼もやらされる側だったけど、その時ばかりは楽しそうだった。人間そういうものだし、僕も体格が勝っていればそうだったかもしれないし、何も言うことは無いけれど。

腕ひしぎって本当に痛い。若干、今でも肘が変。腕立て伏せが上手くできなかったりね。柔らかくなかったらもっと傷めてたと思う。

 

で、夢に見たのもその腕ひしぎの場面なんだけど、かけてる方が僕でかけられてるのが彼だった。容姿はなんか違ったけど感覚はあいつだった。夢の中で復讐するなよって話だけど、ただその夢の感触としては別に復讐って訳でもなく、自然と、慣れた感じでやってた。恐ろしいって思ったねぇ。その自然な感じが。僕も相手を傷めつけて喜んじゃうような部分があるんだろうなぁ。

別にオチもなく、あとはもう一人の顔がはっきり残ってるくらいだろうか。別にもう憎んでもいないけど、思い出して気分のいい顔じゃないね。

 

あとなんか書くことあったかな。

あ、映画観たこと書いて観た映画のこと書いてないっていうね。1964年の『赤い砂漠』っていう映画。イタリアとフランスの合作らしい。事故のショックで不安定になった女性、ジュリアナを中心にした話。主演のモニカ・ヴィッティが時折見せる不安に支配される演技も、映像も現実の薄さやズレを引き立てるようでとてもマッチしていて、終始感情移入してしまうような内容だった。工場のうつらうつらとした景色もなんかこう、親近感。

 

彼女が経験している不安は主に言動として外から(+音)しか描かれていないけど、本当に何かを見ている、支配されているというのが伝わってくる。特に息子が立てなくなったと思い込むシーンは引きずり込まれるようだった。時折起こる成り立たない会話もいい感じ。

 

ところでamazonにあるこの映画のDVDの商品説明

商品の説明
内容(「Oricon」データベースより)
心の乾きを癒すために不倫に走る女の姿をとおして、人間の孤独と闇を描いたドラマ。モニカ・ビッティ、カルロ・キオネッティほか出演。

これいくらなんでも適当過ぎるのではないか。

神経症の不安から逃れるために結果的に不倫になりかけただけで、心の乾きはあんまり関係ないと思う。不倫に走るっていう部分も別にそういうわけではなく、そこにいたコラードとの関係の中に安心というか、それに対する期待を見出しただけで、ジュリアナが不倫に走る女っていうのは全然違うと思う。彼女にそんな余裕はなかった。多少の男女関係を意識して近づいていたのはコラードの方に見えた。

いずれにせよ、彼女の不安による存在の揺らぎがなければ進展するような関係ではなかったと思う。それをすっ飛ばして人間の孤独と闇っていうのもちょっと…

 

 

はい。そんな感じ。

いい映画だと思います。

改めてこう、人それぞれの経験と現実の乖離というか、そういうものを考えさせられる。… 改めてじゃないね。それが見たくてこの映画を観たんだもんね。不安、恐れ、孤独、そういったものと現実の境界ってどこにあるんだろう?だからそもそも現実というのは何なのだろうか。主観的な現実では境界なんてないのかもしれない。客観的な現実は存在するの?

 

 

書きながら聴いてたやつ


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これ色々浮かびやすいかも。