感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

夜空 から 変化、切れ目、ズームアウト

顔の隠れかけた月、その月明かりに照らされる雲がとても綺麗だった。滑らかな雲が月を隠し、少し離れた所から山陰まで鮮明な雲の浮島の世界が広がっていた。カメラを取りに戻ろうかと思ったけど、変わり続けるその景色をずっと見ていたくて立ち止まってた。

ヤシの葉が揺れ、生暖かさと涼しさが入り混じった風が肌に触れた時、ずっと遠くに同じ感触に触れた夜があったことが蘇った。はっきり思い出したわけじゃない。夜家族と外に出れる非日常にワクワクするも、何かを予期した不安な感覚。

 

空は更に流れ、見えない雲に月の場所が分からなくなる。月はいなくなったのに、相変わらず白い雲の世界はより一層はっきりとしていた。雲でできた陸地と陸地の間には明るい星が一つ、煌々と光の波紋を放つように輝く。その光景に胸の奥から吸い込まれるような気持になった。

その時夜空の美しさに感じた怖さ。

 

僕がここに居るということに対する怖さ。

ここが怖いというわけではなく、僕が居るのが、あのいつも違った美しさを見せる夜空ではない、ということに対する怖さ。怖いと思った。そのまま不安になった。

それは多分、風が運んできた過去の感覚と結びついたから。

 

いや、実際不安なのだ。最近ずっと不安だった。見ないようにしていただけ。

大きな変化の中に居ることを肌で感じている。自分の中の変化が人間関係に波及し、周りの世界の変化も人間関係に波及してきた。その変化は川の流れを見るように当然のもの。

それが、今まで乗っていた空気の変化からも、入り始めた新しい風からも、双方向から感じているから、もはや抗うようなものではないのだと思う。

 

僕も一つの束となった関係達との終わりをどこかで予期し、ある部分では踏ん切りがついている。すぐに切れるものではないけれど、僕がこの手で切れ込みを入れなければならない。ほんのちょっと切ってやれば、あとは自然と重みで切れていく。ほんのちょっと。その後は眺めるだけ。

それをすることが決まっているかのように感じている。しないという選択肢はないように。さぞ清々しいことだろう。

 

でも僕は別れが苦手。大抵の場合、僕の別れは流速の違いで起こる。みんなどこかに流れていってしまう。それでも寂しいことなのに、自分で切れ込みを入れるなんて。思い浮かぶのは血抜き。肉に入る切れ込み、噴き出し、滴る暖かく鮮やかな赤い血、遠くなる目、痙攣、そして止る。関係の死を見届ける気分。

 

これは通過儀礼のようなものなのかもしれない。行為自体に意味などなく、ただ示さなければならないのだろう。ある意味ではけじめ。

ただそれは、さっきも書いたように僕の中ではもう決まっている。

 

不安なのは別の部分。この変化がどこまで大きなものなのかが分からないから不安なのだろう。でも同時に、なるようにしかならないとも思う。だからさよならには感謝が芽吹く。それでいいんだろうなぁと思う。

 

お散歩の終盤はもの凄く騒々しくなりかけていたけど、今はまた静かになってる。

不安はいつも、意識を外側にズームアウトしていけば薄れていく。自分の姿が見えるから不安になるもので、山や月や星や銀河の尺度に身を置いていれば落ち着いてくるものだ。

現実逃避?まぁほら、どちらも現実だから。夢と意識と現実の関係でいうなれば、ただクロスしてるだけ。何言ってるの?わかんにゃい。

 

まぁ、だから僕はここに居るのが怖いんだと思う。でもそれが本当なら、怖がるまでもないのだろうけどね。

 

そんなことばっかりしてるから地に足がつかないのかと思ってたけど、ずっと地に足を着けて生きなきゃいけないわけはないと思うしね。べったり着かせようとするからダメなわけで、自分なりっていう方からいけば勝手に足は着くものだから。自分なりに自分のペースで着けばいい。そう。

月を歩く感じのイメージでいいかなと思う。

今は壁に手をついたりしながら宇宙ステーションの中移動してるような感じだけど、それもそれでいいかなと思う。目標は高く持って月ぐらいにしとく。

 

ほら、楽しいね。やっぱり軽い方が合う。このまま気体になって飛んで行ってしまいたい。ダメじゃん。いやダメじゃない。

 

 

*血抜きに対する僕の中でのイメージは大きく見れば肯定的なもの。血肉を狩るのは積極的な生の衝動。その消費(摂取)は連鎖の中の恵み。感謝と繋がり。彼の死が一つの融合となる瞬間。