感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

アンドレイ・タルコフスキー 『鏡 / Зеркало』、精神世界と現実世界

今日はアンドレイ・タルコフスキーの『鏡』を観ました。

とっても良かった。今も映画の余韻の中で、ジェットコースターに乗った後みたいにフワフワしてる。ジェットコースター乗ったことないけど。

 

youtubeさんのホームフィードから同じくタルコフスキーが監督したノスタルジアのトレイラーを見たの。あ、観たいなって思って調べてたら気づけば鏡の方に興味が移ってた。amazon primeにないからやっぱりノスタルジアにしようかなとも思ってたけど、検索してみたら鏡はyoutubeに製作元のmosfilmが直々にアップロードしてた。

 

日本語字幕は用意されてないけど、台詞はそこまで多くないからプレイヤーの自動翻訳でも十分かも知れない。知らないけど。

この映画は細かい台詞の意味はそれこそ夢や記憶のように薄いと思うし、字幕に集中し過ぎると逆に入り込み辛いと思う。タルコフスキー自身が朗読する詩(父が書いた詩らしい)の場面は何回か戻して見た。何度も見るとより深く入り込める映画だと思う。

 

何ていうんだろうな。ストーリーはともかく、記憶と夢と現在、精神世界と現実世界、時間軸の中の自分、自分の中の自分と他者、そういったものの関係がとても身に覚えがある。

特に生まれてからずっと、現在に至っても内的にも外的にも繰り返され続ける母との関係、その中でより大きな意味を持つ、子供時代の記憶とその中の生きた母親像が作る自分の中での関係。その部分がとても重なるものがあるのだと思う。この感情移入は、単純に似ている部分もあるのだと思うし、深層で人々が共有している何かが所謂共感という形で働いているのだろうと思う。その感覚が凄く不思議。

そしてそれを外側から見つめ直すと、この映画の中で語られる、アンドレイという人の記憶を元にした物語が僕の経験に入り込み、記憶と戯れ、それがまた現実世界に干渉し、精神世界を彩り、記憶がさらに形を変え、ってまたそれが繰り返されていく。

僕の書いたこの文字をもし共感をもって読む人がいたのなら、僕の知り得ないところで似たようなことが起こっていく。ってことを考えると不思議だなって思うと同時に、何と当たり前のことなのだろうとも思う。

 

どこか悲しげに遠くを眺める母親。僕もその記憶を持っている。それも母親像の中心として。ただ、その記憶が実際に見て感じたものなのか、作り上げられるものなのか、ある時の自らの感覚を反映して記憶として残った副次的なものなのか、その辺りが僕の中でははっきりしない。その曖昧さが作り出す記憶の中の(だけど現在も自分の中で何か意味を持っているのであろう)母親像がとても僕の中でマッチした。

そこに永遠があるかどうかは分からないけれど、現実と干渉しながらも僕の中で記憶は更新され、繰り返され続ける。その更に深層の、見えているような見えていないような光景と、現実といわれる同じく繰り返され、曖昧になり記憶に溶け込む光景はどちらがより現実なのかと考えると僕は分からなくなる。

 

もしかしたら、現実と非現実という区別がおかしいのかもしれない。プロセスとして互いに繋がり干渉し合う以上、双方が繋がる現実であるか、もしくは共に非現実であるか、それかその両方でいいのではないか。そうでなければ深層での精神的な何かの共有は現実と区別されなければならなくなるし、経験的事実、例えば僕の中でイメージが見えると内的に知覚したこともスパッと現実から切り離された上に現実ではないと否定されることになる。スパッと切ることに異議を唱えたくなるのは、例えばその内的な知覚が現実の知覚よりもより鮮烈なことが少なからずあるからで、主観的な感覚というか、実感が大事な僕にとってはその濃淡による感覚的な逆転が容易に起こり得るからだと思う。その上で現実が大事だ、妄想のような非現実は忘れろと言われれば、より重みを感じるのに否定される非現実側に合わせて現実も妄想の延長にしか感じなくなる。(実際どうなのかは知らない)

 

アンドレイについて調べると、亡くなったのは僕が生まれる1ヶ月ちょっと前らしい。同じ世界を同時には生きていないのに、こうやって一方的にでも何かを共有した気持ちになれることも不思議。彼の記憶は物語を通して僕の中に存在し始めることになった。実際の彼から見ればそんなのは彼ではないのだけど、僕にとってはこの像だけが彼になる。(もう本物が存在しないから)

 

もう2時半だよ!寝なきゃ!やばい、眠れなさそう。まあいいや。

 

最後の場面、とても印象的で泣いてしまった。何で泣いたんだろう。

僕の主観なのだけど、朽ち果てた家は美しい少年時代の記憶の破壊。でもだからこそ、その精神の中に生きている小さな自分と妹、そしてそこには不釣り合いな年老いた母は、時を越えて新しい形で歩き出せるのかなって。

その破壊の悲しさより、牢獄となっていた記憶からの解放、それも自分の中の小さな自分だけでなく、大切な記憶の中の家族も共に新しいスタートっていう風に見えて、それがとても救いに満ちてるなと感じて泣いたんだと思う。

それを見つめる、彼が知るはずのない子供を産む前の母親もまた、その世界の中で新しい未来の関係を見たことで、幸せであり苦痛であり不安な記憶の繰り返しの先にある別の可能性に対する笑みを浮かべ、それが彼自身の気持ち(というより彼の奥底にある彼そのものの表情)を映し出してるのかなって思った。

老いた母との変わってしまった関係にこそ見る幼い日の自分と母、そのある意味で現在の関係を説明する為に誇張された若き日の母もまた、記憶の中にしか生きない存在。その像が反射を繰り返す内に現在や未来という現実を越えたのかもしれない。しかしそれさえも、約束されていたとも言えるのではないだろうか。

 

僕はそういう部分に抑圧があるのかなぁ。

 

そうそう、他者の中に自分を見るのか、自分を通して他者を見るのか。それは内外という向かう方向によって逆転するのかも。片方に向かえばもう一方にも返ってくるから、それは意識しなくとも常に対として作用している。ただ、それは内外という関係においてであって、僕が乱反射と時々書いているようなことは、僕の内側の様々な断片的な存在を通す度に、プリズムを通る光のように屈折を重ねる意識の視線なのかもしれない。

 

本編

https://www.youtube.com/watch?v=CYZhXm02kN0&t=18s

 

Mosfilmチャンネル、他にも大量にソビエト・ロシア映画がアップロードされてるよ!ロシア映画あんまり知らないけどいいもの見つけた気分!日本から見れるかは分からないけど。

アンドレイ・タルコフスキー作品も彼がロシアを出る前の『僕の村は戦場だった』『アンドレイ・ルブリョフ』『惑星ソラリス』『ストーカー』がアップロードされてるみたい。

暫く生きる楽しみになってくれそう。