感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

おままごと、ドラマ 小1の記憶

子どもは親や大人たちを見て学ぶ。例えばおままごとやごっこ遊びは見たものを再現することによる体験型の学びなのだろう。

 

僕が子どもの頃、印象的な出来事がおままごとの中であったのをふと思い出した。

小1の頃、一時期よく一緒に遊んでいた同じクラスの女の子。保育園から一緒だったから割と抵抗なく遊んでいた。

 

その子は古びた平屋の借家に住んでいて、当時は母子家庭だった(3年生ぐらいの時親が再婚して名字が変わった)のでよく家に呼んでくれた。

ネズミが出るという家に僕は興味津々だった。スーパースコープというバズーカみたいな形のスーパーファミコンのコントローラーがあったのを覚えてるけど、テレビゲームをやった記憶はない。僕はそれをやってみたさに通っていたことがあった気もする。

お風呂の形が丸かったのも記憶に残ってる。

 

その子は気が強めの女の子なんだけど、遊び方とか決めてリードしてくれた。今思えば僕はそういう感じの子と仲良くなることが多かった気もする。

 

その子と遊ぶ時は大体2人きりだった。近所の小さな子が時々参加するくらい。あんまり友達が多い子ではなかった。

 

その子とのおままごとは特殊だった。うち一つは、今思うとかなり際どいんだけど、その子が全裸になり、僕も全裸にされて布団に寝転がるというもの。しっかりブランケットをかけて。何の意味があるのか当時はよく分からなかったけど、僕はそもそも他の遊びでもルールとかよく分からないまま遊んでいることが多かったから、別に何も不思議に思わなかった。その遊びは複数回した。

全裸になりブランケットをかけて意味のない会話をする。それだけ。何が楽しかったのかと聞かれると分からない。でも小さな頃は初めてのことは何でも楽しかったと思う。

 

もう一つ、これもおままごと(ごっこ遊び?)だったんだけど、その子と遊ばなくなる切っ掛けになったこと。設定は夫婦だったのだと思う。普通のおままごとだと思っていたら、外出から帰って来たママを演じるその子にいきなりビンタされた。「え?」って感じでいきなりのことにびっくりして僕は泣いた。わけがわからなかった。

その子も僕が泣いたことで現実に戻ったようで、謝られて一旦その場は落ち着いた。

でもそのすぐ後に近所の子供がオーディエンスとして加わり、気づけばその設定でおままごとが再開された。そしてその子は近所の子に向かって、僕が嘘を吐いたと言いながら嘘泣きを始めた。「私がいるのに彼女がいる」「最低な男」という意味不明なことも言いだした。

後々思ったのだけど、クレヨンしんちゃんのネネちゃんのおままごと、あれに似ていると思う。

 

僕は意味が分からないながらも、嘘を吐いた覚えがないのに嘘を吐いたと言われて怒ってしまった。しかも最低なんて言われて、それはどっちだよと思った。さっき僕に謝ったのは何だったのか。色んな事が頭を過った。The 理不尽。

もはやおままごとと現実の区別はなかった。僕はとにかく嘘が嫌だったし、嘘吐きと思われるのはもっと嫌だった。多分僕の昔からの潜在的な恐怖でもある。

誤解を助長したのは、僕の中でそれが既におままごとではなかったというのもあるだろう。僕の中の常識ではおままごとの中でビンタも感情的な罵りもなかった。家庭でそういう光景を見るようになったのはもう少し後のことだったし。

 

拗ねる僕に対し戸惑いながら弁解するその子の言葉を、僕は聞く耳を持たなかった。僕は近所の子たちに「僕は嘘はついてない、嘘つきは~ちゃんの方だ」と弁明し、プンスカしながら家に帰った。

それからは僕はその子と遊ぶことは殆どなかった。嫌な子だと思った。何年か経ってから2回くらい遊んだかも。それぐらい。

 

今思えば全裸ブランケットもビンタも罵りも、その子の中では紛れもないおままごとだったのだろう。恐らくその子は自分が見た光景(実際に見たのか、テレビで見たのかはわからない)を演じ、体験遊びをしたに過ぎない。大人を取り込み、自分のものにするための行動、学習。だからあんなにたどたどしくも感情が乗り移っていた。おままごと兼ドラマみたいな感じだよね。そうだ、僕の中ではおままごとは単に調理とか配膳だったのだろう。

だって小1だよ?僕男女関係なんてその時は全然分からなかったよ。パパとママと一緒に住むものっていう程度の認識しかなかったはず。性教育の内容と理科と従兄の部屋で見たエッチな同人誌と自分の世界の男女が繋がって、やっと性について理解し始めたのが中3くらい。やや遅め。

 

まぁ、そんなこんなで嫌になってしまった友達だけど、そう考えるとその子も再現を通していろいろ知りたかっただけなんだろうなって。

実際に見たのか、テレビで見たのかはわからないとは一応書いたものの、使う茶色のブランケットも布団も場所もいつも固定で、寝転がる場所も指定されていた。シチュエーションの型があった。そしてここは記憶が曖昧だから、僕が付け足したのかもしれないけど、早く寝なさいとその子が架空の子供を追い払うシーンがあった気がする。

 

だから、その子が演じていたのはいつも母親で、オーディエンスとなった小さい子や誰もいない空間の側からその子が見た光景だったのかなって。母親を真似るというのは他の動物を見ていても正常な学習行動だと思う。そう思うともう嫌な子とは思わなくなった。同情はしないけど…

そして小1の僕は気づかぬうちに実在する大人の男を演じていたのかもしれない。そう思うと感慨深いね。ビンタされたのは多分僕だけじゃないのだ。やはりその瞬間、僕はその子から見たら罪な男だったんだろうね。

 

それぞれを通して重なる空間と記憶。その連続こそが恐ろしいドラマだと思う。

 

人生自体が単なるドラマのような感じなのに、その中で見て真似、演じ演じられ、それが繋がり人格が形作られ、また見て真似、演じ演じられていく。外側でも内側でも。鏡に映るものはどこからきたもので、どこへ行くのだろう?