感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

団地 別の価値観の世界に育つ子供 住み分けと共生

早朝の市場付近。

おじいちゃん6人が輪になってシンナーを吸っている。おじいちゃんはまぁいいのだけど、そこから1ブロックのところでは学校に行ってれば小学校高学年くらいの子達3人がシンナーを吸ってた。一番小さい子は9歳くらい。時々見かけるけどいい気分にはならない。

覚せい剤をやってる大人がそれなりにいる世界では、シンナーは比較的手を出し易いというのもあると思う。

お金も国籍もない子たちは学校に行けないからシンナーに手を出すのだろうか?貧困というのは密接でありながら食い込んで絡まる一つの要素に過ぎないと思う。

 

ここで思い出すのが日本の団地。

団地は沢山の種類があって、それぞれ独特の世界が生まれるものだと思う。思い出したくもないけど。

団地住まいの人全てを悪く言うわけではないけど、「団地の子には気をつけろ」と言う言葉は身を以って理解しているつもり。違う環境であって違う世界だから、そこで育つ子は感覚が違う子が多い(団地や家庭環境にもよるけど)。

家庭と言う庇護のもとに育った子供を持つなら警戒するに越したことはない。

 

団地の子、その中でも共働きの家の場合、家庭という最小単位の社会よりも、団地内の友達との関係がより密接となる。その年齢幅のある半ば強制力を持った交友関係は一種の群れを形作る。特に年上の子たちの力に従うことを覚えるのだと思う。力に従うことは力で従えることを覚えることでもある。自然と出来あがるからすごい。サル山の体現。

このシステムって家庭の庇護のもとにほぼ同級生としか遊ばずに門限には家に帰る子たちとは全く違う世界。

その二つは大人と子供ぐらいの違いがある。団地育ちの子からすれば外の子はお子ちゃまに見えるだろう。僕はお子ちゃまだった。

 

暗い話になりそうだから話を戻そう。

 

その団地の世界ではワンピースが好きな人が好きそうな絆みたいなのがある。

僕にはよく分からないのだけど、年上のお兄ちゃんへの憧れっていうのがあって、その年上の兄ちゃんは自分の覚えたかっこいいことを弟分に教えてやろうっていう変な使命感みたいなのがある。親がいつもいない寂しさを知っているから、こいつにはいいことを教えてやろうみたいな。

 

外の世界ではなかなか起きないようなことが連鎖的に起きる世界になるんだと思う。

エッチなことは勿論早く覚える(やらせてあげる役割になってる女の子も見た)し、万引きやタイマンの決闘ゲームは通過点だし、酒、たばこ、シンナーも買ってもらえちゃうから手に入る。

それが悪いとは言わないけど、そういう世界。

 

そんな世界といわゆる一般家庭的な世界の価値観は合うものではない。でも同級生として一緒に育つんですよ。群れの理屈に生きる狡猾なオス猿と動物園で親に育てられたサルが同じ部屋で。

後者の親であるなら団地の子には気を付けた方がいい。自由にさせることが自由であるとは限らないから。

庇護に置き、一般的な価値観の元育てたのなら責任感を持って守った方がいいと思う。サル山に引き込まれないように強制力も行使した方がいい。普通の世界もサル山は作るけど、団地のサル山はかなり違う世界だから(団地にもよるけど)。その辺をうまくやりくりできないような子なら、親の判断で引き離した方がいい場合もある。

 

 

一つの社会の下にいくつもの社会が混在する。価値観もそれに伴って違うものが混在する。一般的な公立の小中高校でも見られるこの二つの世界の違い、その違いの大きさは「団地の子には気をつけなさい」という言葉に現れている。僕はこの言葉をもっと早く知りたかった。同じだと思うと痛い目を見る。感覚も何もかもが違った。

僕は小中は地区的にそういう子が少なかったから、あそこまでの異世界は見ずに思春期まで育ったからね。

僕は何とか生きてるけど、同じような目に遭ってダメになった子もいた。珍しい例ではなかった。

学校ってそういう面で見ても怖い。それを教師や親が認識してないのが更に怖い。立派なリスクですよ。

 

だからって偏見を持って見ろと言うわけではないのだけど、事実は事実として、違うものは違うものとして、違う世界の同じ人間として接しないと合わないことは多い。危険も生まれる。

民族による差別や区別がほとんどない日本の中では、子供が経験する一番身近な異文化共生(住み分け)の例かもしれない。

住み分け。完全に重ならないから上手く回る。下手に交わらない方がいい場合もある。

 

 

繰り返すけど団地や団地に住む人を悪く言う意図はないからね!