感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

ユートピアとディストピア から

ディストピアはユートピアの反対とされることが多いけど、果たしてそうだろうか?そもそものディストピアも幅がかなり広いのだけど、少なくとも正反対とか陰陽の関係とかそういうものではないと思う。

 

ユートピア、理想郷もある点から見た理想郷に過ぎないのなら、ディストピアもある種の理想郷であって、それはユートピアの一種なのではないだろうか。

最小不幸であれ最大幸福であれ、統制下の秩序であれ無秩序であれ。

 

結局はそれを選ぶ側の問題になる気がする。

いや、ユートピアと呼ばれるものがその程度のもの、ある点から見た理想でしかないのなら、それはユートピアとしては甘えだと思う。それは寧ろある種のディストピアではないか。ディストピアとはどこかで現実的なものだ。ユートピアンならその先の理想を見てもいいと思う。

「大昔から見たら現在は十分ユートピアだ」っていう人が居るけど、その人の言うユートピアと僕の思うユートピアは別のものだ。大昔から見たらとか十分とかそういう相対的なものじゃないと思う。それは甘え。

 

ディストピアを越えてユートピアで在ろうとするなら、その受け手によるという部分をどうにかしないといけない。

そこで受け手に手を付ければそれはもうディストピアになってしまうから、「それぞれの人々が本来的な姿で理想郷と感じる」という線を上手く越えなければユートピアにはならないのではないか。だからユートピアは個々だけでなく全体意思によって築き上げられなければならない。

でも本来的とはなんだろう?その追い求め方でもディストピア止まりになるのかもしれない。

 

ディストピアはどこかで現実的と書いたけど、僕はユートピアは現実的かどうかなんて度外視でいいと思う。ユートピアがユートピアであるのは手が届かないからだ。それを想うことに意味があるのではないだろうか。

ツァラトゥストラが言う、人間という不完全な生き物は超人に向かって架け渡された綱や橋だって言うのと同じで、ユートピアは僕達には手が届かないものだからこそのものであり、それを意識することに意味があるのだと思う。不完全な社会や集団が橋になるためには、その先にユートピアがなければならないし、その存在によって導かれるように目指すことになる。人は夢見る生き物だから。

 

そうであるなら、ディストピアもユートピアを夢見た者の試行なのかもしれない。ディストピアがディストピアで終わるのはそれがユートピアたり得ないと認識できるからだ。そしてそれは同時に教訓を示すものであるから、やはり橋の上にあるものだと思う。終着点ではないから、そしてユートピアに繋がるものだからディストピアなのだろう。

 

超人とユートピア、理想の人間と理想の社会を重ねると、現在は不完全な人間と不完全な社会という対比になるけど、ではユートピアの実現には人間すべてが超人にならなければならないのかという疑問が浮かぶ。多分そうだと思う。同時に乗り越えられる?分からないけど、やはり並行して重なり合った綱が沢山あって、皆がそれを渡っているということなのだろうか。

 

なんか滑稽じゃない?滑稽って好き。何と滑稽な世界だろう。僕も君もみんな滑稽!って思うと楽になる。

 

ユートピアユートピア書いといてあれだけど、ユートピアの中身ってなんだろう?

考えたこともなかった。随分とふんわりした概念として使ってたんだなぁ。イメージの中にはハッキリあるのにな。不思議。

でも実際中身なんてわかんないよね。超人にしかわかんないってことかな。案外温泉パラダイスみたいなものだったりして。でも温泉は一人でまったりが好きです。