感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

客観 から

客観とは何なのだろう。主観と客観。人と人の織りなす社会では客観性が重視される場面が多い。そこに主観客観の二元的な見方が客観を信用に足るもの、正しいもの、主観をその逆としがちだと思う。

 

でも主観と客観という二元的な捉え方はどうなのだろうか。客観性も主観性も重なるものであって、どこから何をみるかで使い分けるっていう方が僕はいいと思う。あ、いや、別に二元的に見てもいいと思うけど。

 

客観で調べると主観の外側とか反対側とか、意識から独立した観点とか、第三者の視点って書いてある。

 

でも例えば客観と呼ばれるものが、ある集団にとっての主観でしかないということがいかに多いことだろう。そこで事実とされるものが、やはりそこだけのものであることがどれだけあるだろう。

彼が主張する客観的な事実が彼の上位の集団の主観でしかない時、僕がその集団の外から見ていればそれは主観的主張に感じてしまう。そしてそこに正しさが入り混じった時排他性が発現する。

客観性が人と人の間にある限り、多くはこれで、あとは程度の差でしかないのではないだろうか。

 

科学的事実だって時代や勢力によってアップデートされ続けるだけで、大げさに言えば100年前の科学的事実と100年後の科学的事実はそれぞれの客観性を持っているけれど間に挟まれた僕から見たらそれぞれの主観じゃんってなる。僕から見たら100年前の方は「なんだこいついまだにそんなこと言ってんの?」って思うかもしれないし、100年後の方は「は?意味わかんない」って思うかもしれない。ものにもよるだろうけどね。

 

求められる根拠というのも客観性を重視されるけど、その根拠になり得る客観的なものがどれだけあって幅広いか考えると気が遠くなることだろう。

 

客観を信じてやまないことは自らが構成要素になった集団としての意識に答えを委ねている状態であって、ル・ボンの言うオートマトンと多分重なるものだと思う。それが外から見ると感情的な主観に感じるのは、多分接着剤というかwifi通信として集団の中の人を繋げる作用を感情が担ってるからだと思う。わかんないけど。

さらっと集団としての意識と書いたけど、集団は意識を持ってるのだろうか。でも僕の中で独立した器官が知覚したものもまとめて意識されるわけだし、腸内細菌やウイルスや寄生虫もそれに一枚噛むって考えれば何も不思議なことはないと思う。似たような機能を示すのだし、社会性なのかそれ以上のものが生んだのかわからないけど、そういう作用はあるのだろう。

まぁ、実際そこにあるように感じるのだからそれでいいってことにしよう。

 

ワンネス(を個々が感じる)っていうのも共通点があるのかな。対象がより普遍的な上位なのか、なんなのか。でも集団の中のそれとは使ってる領域も違うかも。

 

別に客観をディスってるわけじゃないの。(ディスるなんてナウでヤングな言葉初めて使った!)

正しさや善悪も客観的主張が結構狭い範囲のものだった場合とか、勢いのある流れの生んだものの時って割とすぐ掌返すじゃん。下位の集団や個々は驚く程それに気づかないまま正反対のこと言い出す。それが怖いの。そうなの?まぁわかるけど。

もし前世があったなら多分僕はこれに殺されてるね。いや、殺した側なのかな。

 

怖いっていうのは置いといて、それが嫌いなの。それが見えると今まで散々言ってた(言ってなくても態度で根拠としていた)客観ってなんだよって思う。冒涜とさえ思う。何に対してだか知らないけど何かこだわりがあるんだろう。

もっといろんな客観で見ればいいのにと思う。

 

仮に集団の中の立場であっても個々の主観に立った(と意識せずとも認識した上で)主張を交える人に僕が抱く安心感は、そこに彼の主観的事実があることでもある。集団的な幻想より個人的な幻想の方が『個人的な』と弁えてる部分で害は少ないからなのかな。流れとして巻き込もうとはしてこないわけで…

それに少なくともそういう個人は1人以上いるということだしね。

 

さて、もう2時です。で、何が言いたかったのかなぁってさっと上にスクロールしてみたところ、やっぱりいつもの集団怖いの一言でまとまるのではないかという説が濃厚。

お前もその一部なんだぜって今誰かが言った一言はわかるけど、だからなんだろうなぁ。そうねぇ。でもそれじゃないんだよなぁ。