感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

自己否定 自己欺瞞 歪んだ信念 プライド

中盤までまじめだったのに途中からおかしくなった。いや、おかしいのが僕のニュートラルなのだろうけど。公開するか迷ったけどします。特殊な羞恥プレイみたい。

でも不安定な方は見ないでください。そうでなくても無駄に長く堂々巡りで内容自体ありません。

 

 

僕の中で僕が増えてしまう。それはその僕が僕であって僕でないからだろう。

何故それが起きてしまうのかといえば、自己否定と自己欺瞞と割り切れない性格にあると思う。

 

僕がパラドックスだらけの存在になってしまうのは、相手を認めなければならないという価値観、そして自分を否定してもそれは曲げ『てはならない』という強迫的な信念にあるのかもしれない。

 

認め『なければならない』から他者であるべき存在を自分の中で見つけ出し、作り上げ、住まわせてしまう。それは僕の基本的に持っている価値観と相反する自分の部分によって作り上げられ、それを通してその人を理解して肯定しようとしているのだと思う。

 

それは見せかけの相手であって、実験台であって、そして自己否定が根ざしている僕にとっては自分よりも肯定され『なければならない』ものになってしまう。結局のところその見せかけの相手は、認め『なければならない』対象すなわち自然に認めるには複雑な感情が付随してしまう相手やその行動に対峙した時に、自分自身のマイナスな感情を裏返したときに見える、僕自身の内面にある影を自己投影することによって作られている。言い換えればその時点で自己欺瞞であり、何ら相手とは関係ない幻影。

巧妙にそう思い込むことで相手を理解しようとし、逆に理解から遠のいている可能性を無視している。無視ではなく軽視かな。

 

影に見る自分を通すから相手を肯定できるのだけど、そもそも僕自身は否定され『なければならない』。

僕が本来的に自分が優位に持っているものを同じく持っている相手に対し、とても共感すると共にその相手に安心感をもらえるのは、否定され『なければならない』自分をその人の中に見て、その否定され『なければならない』自分を間接的に認め、慰めているのではないか。とするならば相手を認める気持ちも欺瞞なのではないか。

それはその人と対峙する上で真摯な態度といえるのだろうか。

 

 

僕がやっていることを玉ねぎで喩えてみる。

疑心暗鬼な僕は、一枚一枚輪葉を剥いて捨てていく。これは欺瞞ではないか、これは欺瞞ではないかと。それは本来的である自分を否定し、その裏で認めがたい性質を持った他人を認めるために影を肯定することをしてきた僕にとって、欺瞞と認めるハードルは低く、捨てる(否定する)に足るものだからだ。

内側に向かうほど純度の高い本能レベルになり、玉ねぎの内側に自分を認めることが可能になってくる。その性質は皆が持っているはずのものに近づいていくからだ。認めることができないはずがない領域に迫る。

 

僕が否定的に感じる現象に遭遇したとき、その現象を引き起こす相手を否定『してはならない』ために自己の影を利用して作ったコピーの玉ねぎの輪葉を剥いていく。結局のところその行為によって認めているという感覚自体も欺瞞である可能性も捨てきれず、剥いて剥いて剥いていく。

最終的に行き着くのはやはり純度の高い本能レベルであり、自分自身にとっても受け入れることができる領域だ。普遍的無意識というものに近いのかもしれない。それはヒトがヒトであるということを覆さない限り認められないはずがないものでもある。そこに到達することで強迫的に同じものだと認めている。

 

その領域では自分自身の表と裏がひっくり返る瞬間がある。文字通り自我が飲み込まれる、人格が切り替わる(意識も記憶も連続しているが)と感じる瞬間がある。

そこではっきり意識してしまう。どちらも僕だと。でもその二つが相容れない相反する性質を持っているために、僕が増えてしまう感覚があるのだと思う。

 

コントロールが効いてるから良いけど、多分あまりよくないことをやっているのだという自覚はある。でもやめられない。

 

闇に飲まれるとき自我も飲まれる。それは自分自身であって普段の自分からすれば影である部分と入れ替わるとき。どちらも連続した意識のある自分であり、どちらも自分自身であるべきであって、どちらかは自分自身であるべきではないものだ。ではどちらが自分自身ではないべきなのか。それはそのときの自分によって違う。そのとき優位なものによって捉え方が違うばかりか欺瞞も変わってくる。変わらないのはどちらも欺瞞であることだろう。そう、全て欺瞞になる。自分の存在すら欺瞞の積み重ね。そうなった時何を信じればいいのだろうか。

 

玉ねぎ全体が僕であること、勿論そんなことは分かっている。フローの一瞬一瞬が自分なのも分かる。でも分かっていることと認めることができるということは別。

僕の内側で僕個人を構成する部分は多かれ少なかれ自己欺瞞の要素を持っている。その欺瞞を個性のうちだと認めることができないのは歪んだ信念が作用しているからであり、高すぎるプライドのせいなのだと思う。

 

段々自分で書いてることが分からなくなってきた。いつもそうだけど。

 

自己肯定感がひとつの鍵なのは分かる。多分、それがあれば自己欺瞞を気にせず信念に忠実になれる。その先に自分の認識、選択、行為、そして自分そのものをも肯定することができるのだろう。だってそもそも自己欺瞞は自己欺瞞と捉えれば果てがないもの。それも分かってる。断ち切らなきゃいけない。でもその強さが僕にはない。いや、その弱さに縋っているのかもしれない。

 

自己欺瞞を是とできない歪んだ信念によって自己を否定することで肯定した気になるしかない人間はどう生きたらよいのだろう?

様々な呵責の中苦しみ、その苦しみの内にしか自分を見出せない人間がその苦しみまで欺瞞と捉え『なくてはならない』苦しみや、自分自身の存在を信じることができない孤独は誰に理解してもらえるのだろうか。

僕ごとき存在が理解して『もらってはならない』ことや、ましてや自分自身が理解『してはならない』ことは前提として。

 

根っからのMであり根っからのSなんだろうな。自己SM気持ちいい!って思って目を逸らすしかないじゃない。でもその態度を以って他人と接するのは真摯といえる?それでいいの?それ自体も欺瞞だって気づいてるんでしょ。

鞭で打つ方も、鞭で打たれる方も、マスクの下に本当に僕がいるのだろうか。それすら分からないけどそう思うしかない。滑稽。

頭おかしくなりそう。十分おかしいのも知ってる。でもそうやって苦しむふりをするのは本当に苦しむ人に対して失礼ではないか。僕は苦しんでいることも認め『てはならない』のだろうか。

 

 

ゲームの高難度縛りプレイを人生でやってるんだよ。クリア不可能なのを知っていながら、それに苦しむ自分を認めるために。それが高尚だと思ってる?ただの馬鹿でしょ。

 

玉ねぎの内側の高純度の本能的なものを理由にして僕はその行動をする他者を認める(努力をする)と共にその他者の行動による結果を否定している。

それ以外の方法で全ての他者を認めることはできるのだろうか。

 

根本的にバイアスがかかっている。

何故全ての他者を認めなければならない?何故他者を否定してはならない?そんなことが可能だと思った?何故他者を傷つけてはならない?傷つけあう動物だと認めているのに?

そもそもその姿勢が道徳観に支配されているのではないの?だから押し付けられる道徳を忌むのだろう。自分自身が積み上げたわけでもない僕自身の中にある道徳を守るために。それに何の意味があるの?

 

その社会・文明・それ以上のものの積み重ねの上にある僕が、その内側に積み重ねられたものを守るために社会や文明すら否定する。それは結局のところ次世代の考えを認めない古い価値観に生きる人と同じ行動を、規模を変えてしているのに過ぎないのではないか。傲慢というレベルではない。

でもそこには僕の大切にしたいものがあるから…それだけは欺瞞だと思いたくない。それも傲慢なのだろうか。

 

傷つく者を見るのが辛いのに、消えてしまう者を見るのも辛いのに、それを生み出すものを肯定することはやはり難しい。例えそれが一面であっても、暴力は暴力だから。

どう割り切ってバランスを取ればいいのか分からない。皆どうやってるんだろう。本当に。それを聞いたところで僕には適用できないことも知ってるけど…

 

 

白い玉ねぎを剥くごとに積み上げられる黒い玉ねぎ。両者は何故講和に至れないのか。

交渉のテーブルは用意してある。でもどっちもその座につくにはプライドが高すぎる。これだけ自虐し、自分を軽蔑する人間がプライドが高くないはずがない。分かってた。プライドの塊。馬鹿みたい。

 

交渉は今回も決裂!

また苦しんでくださいね。それが気持ち良いんでしょ?そうすることで自分を保ってるんでしょ?それを苦しいという考えが甘いんだよ。誰の役にも立たない上に苦しんでるふりをして。やり方が汚い。

 

ため息しか出ない。

不良品でしょこれ。不良優良という概念の外に出たい。森に帰りたい。

 

 

今回も沢山の~で『なければならない』が出た。歪んだ信念を読み解くヒントになるのだろうか。