感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

楽観と懐疑の海 苦痛の肯定 軸

ところで、人生を見つめる視点って沢山あると思う。意味だったり、目的だったり、関係だったり、個々集団様々な存在そのものであったり、色々。

その中で例えば、目的を通して見た時に個人レベルでの目的として挙げられるのは、相対的なものと主体的なものがあると思う。その中で主体的な目的のための価値として何らかの向上とかって聞く。でも自分という絶対の中で、向上は何を意味するのだろう?不完全な人間という存在にそんなことが可能だろうか?それとも自らに確信的な信念や理想があれば、それに従うことや近づくことを向上ということができるのだろうか?でもそれは追及であって、それ以上でもそれ以下でもない気がする。

 

経験による学びを一つの意味として捉える時、例えば経験に対する意味付けに意味がないとした立場を取ったとして、でもその外側では意味があると捉えることもできるし、その逆もできる。経験に対する意味付けに意味がないとした立場をとった経験に意味があったと。

例えば運命というものがあったとして、その中でそれを信じずに生きたとしても、それが運命だってことなのかもしれない。 運命というものが無かったとして、その中でそれを信じて生きたとしても、それは運命になるのかもしれない。 同時にそれらの逆も言えるし、その外側でずれてるかもということもできるし、例外というのもあるかもしれないし、etc...

 

結局は自分次第なのだろう。

 

僕は軸がないから、その楽観的で懐疑的な思考の中で自分の取るべき立場が分からなくなってしまう。

 

少なくとも2兆個はあるとされる銀河の中の1つの内側の、千億くらいあるとされる恒星の中の1つが作る太陽系の中の、数百万以上とされる生物種の中の1つの、77億人以上現存する人間の中の1人って考えた時に、銀河や宇宙の外側や、100億年以上の生物の営みや、宇宙的な時間や動き、生物の枠の外側を同時に想像した時の気分。

 

 

はー。って。

数字は大体でいい。全部ふわっとしていて、その3次元的な外側に更にふわっとした可能性があって。全部がふわっとしているのは、自分さえもふわっとしているのは、そういう見方しかできないからかもしれない。目の前にあるコップだって今この瞬間はその形を保っているからコップであるだけなのだし、サルに渡せばもうコップとして機能もしない。だからふわっとしてる。どんな可能性も捨てたくない(どれも一部事実は内包している筈だから)から、頭の中はごみ屋敷より酷いことになってるかも知れない。

 

それでさ、そこに僕は確かに(?)知覚を持っているわけで、脳内にはさっきの銀河の数に勝るとも劣らない神経細胞があって、それが一個体として思考している(のかしてないのか)。それがどれだけ不思議なことであるか。っていうようにどうしても大きい方から見ようとするから、しかもそれが不確定なものも沢山詰め込まれているから、よくわからなくなるのかな。~からって言った。そんなものは少なくとも僕自身には分かる筈がないのに。

でもこの思考(というよりは認知かな)パターンが基礎になってるからどうしようもない。

 

楽観としての体を成さず、広大な懐疑の海に溺れ窒息する。懐疑の先にある結果さえもも楽観視して曖昧な不安に蝕まれる。でもそれが心地いい。

 

楽観と懐疑、この2つの相性はあまりよくないと思う。少なくともこの比率では。

どっちが根底にあるのかわからない。恐れという部分から察するに懐疑は後発なのかも知れないけど、割ってみると中から出てくるのはやはり大切なもののようだ。

 

自分の軸という意味では、信念が大切なのは分かる。ここ数日それを思い起こされる機会が多かった。信じる強さ(両方の意味で)への憧れもある。

信念はどこに置けばいいのだろう?僕が納得できる範囲に置けばそれは僕の中で意味を成さない。外側に置こうとすれば疑念がそれを許さない。

どこまで捻くれているのだろうか。妄信をどこかで蔑みながら妬いているのだろうか。いや、その辺は人の勝手だと思うけどね。ただ、どこかで淡い感情が浮いている。

 

 

自分次第。

でも僕が仮に信念を自由に置いていいとされたら、多分それを置くのは外側になる。楽観と疑念を守るために。でもさ、軸のない自分に軸を持ちたいと言っているのにその考え方は滑稽だよなぁ。

軸がない自分という存在を広大な空間の中に放った上で、その外側を固定して軸を置こうとする。何度やってもそうなってしまう。この場でも何度も繰り返してる。

銀河の中を彷徨う自分を見ながら、銀河団に軸を置くような感じ。彷徨うのが苦痛だと言っているのに、それじゃ何の解決にもならない。でもそれが僕にとっての唯一の解決策になる。少なくとも今見える中ではね。

 

 

それが恐らく僕が苦痛だと言いながら苦痛を肯定している部分であって、結局のところ価値を見ているものであって、やはりある意味ではそうまでして守るのは信念でもあるのかもしれない。

考え方が滑稽というより、そもそも滑稽な存在だと思ってもらった方が正しい。全く卑下してないわけでもないけど、滑稽だからこそっていうのが僕にとって大切だから。

 

軸がないとまずいとまで思うようになったのは、最近体調を崩す原因がその辺りのストレスにあるような気がするから。地に足を着けようとすればするほど根が腐っていく。人生というものが上手く捉えられなくて、全体が内外から霞み薄れていく。このまま薄れて存在自体が思考の中に消えていってしまうんじゃないかとか、ちょっとした危機感があるのだけど、中々うまくいかないね。

最近はこうしてまとまった文字になることも減ってきたし、文字になっても前以上に支離滅裂な気もする。まぁいいんだけど。多分今は踏ん張り時。いつまで似たようなことを続けるんだろうか。

 

何ていうのかな。僕は自由浮遊惑星とか、恒星間天体とか、銀河間天体とか、そういう存在なのだろう。

僕から見ると、多くの人々はまとまって近づいて来ては、まとまって離れていく。それはいつもちょっと寂しいけれど、だからこそその瞬間を大切にしたいとも思う。宝物は孤独の中振り返った時にあるものだとも思う。

 

人が離れていったか僕が離れていったかは見る位置の問題に過ぎない。離れたということは近くに居た時期があったということが事実だし、それは素敵で奇跡的なことだと思う。

だから去る者は追わないし、来るものは来るだろうというスタンス。

仮に去る者を追っている時があれば、それはまた、そういう時なのだろう。という態度。だってそれでまだ離れないのなら、去ってはいないということだから。逆も然りで。

 

孤独は孤独だけど、それももっと遠くから見れば僕の軌跡が描く弧も、離れていった人達やまだ来ていない人達と同じ影響のもとに作られているのだろうしね。そういう意味ではやはり、どこまで離れても共に流れている。

不思議だね。