今日色についてちょっと調べている時に色彩検定っていうのがあるのを知って勉強したいなぁと思った。でもテキスト今の状況で日本から買って送るのちょっと面倒だし、試験は日本で回数も限られてるしでうーんって感じ。
取り敢えず衝動に身を任せて色の辞典っていうkindle本を買った。本当はこういう本は紙がいいのかなって思うんだけど、海外発送時間かかるし、そんな本読み出して急にどうしたんだろうって家族に思われるのもなんか嫌だから電子版でいいやって。
ここしばらくお勉強物に全くときめかなくなっていた僕が勉強したいって思ったのがまず発見。色に対する興味が知識を取り込むという億劫になっていた行為にゴーサインを出した。いや、知識を取り込むという行為じゃなくて知識を取り込むのが好きな自分に嫌気がさしていたのかも。集中力も落ちたしね。
色については知識を入れて後悔しないか不安もある。知らないなりの見え方も好きだから。でも見え方が広がるのも確実だからワクワクもする。
例えば景色を見る時とか、色んな自分で見れるといいのかな。できるかな。できる気もする。融合させたり、切り離したり、相談させたり。
アウトプット、伝えるということも必要になる場面があるから、その為には知っておくことも必要なのかもと思う。
感覚だけじゃ中々伝えられないから。どういう形にして伝えられるだろう?
一日の中でも光によって移り変わる森の色彩、一本の枝に着く葉も光の当たり具合や葉の育ち具合で色んな色を放っていて、それが毎日移ろいでいく。水質によって変わる川の色、反射する景色や光。明暗しか認識できない暗い時間の景色。木漏れ日を拾う小さな木の懸命さが出す葉色。景色の中に自分が一体化している時の見え方。
森での生活は僕の中で知覚と自分と環境の関係を変化させた。色はその中でも一つ大きな意味を持つものだ。
語りかけてくるもので、外から受け取っているのに内から写すものでもあって、包み込む秩序であったり主張するものでもある。
例えば目の前で咲く黄色い花のグラデーションが柔らかく優しい微笑みかけるようなものであるか、ケバケバしく主張しているような黄色になるかはその花と僕の周囲の自然を介した関係性によっても変わってくる。溶け込んでいる時は花も僕もその周囲の一部だから、その黄色はとても自然で柔らかな、明るくも秩序を崩さない色になる。
っていうようなことをもうちょっとうまく言葉にしたり別の形でアウトプットするような場面は今後もあると思うから、もうちょっとちゃんと伝えたいなって。伝えて伝わるようなことでもないと思うんだけど、でも伝えて伝わる人がいたらその人はそれを伝えられるべくして伝えられるのだろうから、その時の為だけにでも沢山伝えられるようにしたいなって思う。日本語崩壊した。
でももしそんな瞬間が来たら、それだけで全てに意味ができ、一本の線が繋がると思うから、じゃあじゃないけど一生懸命にならなきゃなって。
要約すると、単に色んな色を見たり、色んな色に囲まれてその一部であることが楽しいってだけなんだけど。
楽しいって大事だと思う。
何か新しいものが見えそう。何かに繋がるかな。楽しいから繋がらない筈はないと思う。一本だから。
最近このブログ書いてる時、文体も単語も文と文の繋がりもなりふり構わずになってきた。前はある程度調整してたし、考えて直しながら書いてたから。
でもなんか無修正もいいかな。無修正っていうとなんかアレだから無調整にしよう。raw。僕写真撮っても編集面倒くさがるタイプだからね。
言葉って意味が通じるように入れ替えてると段々自分のものじゃなくなる気がする。どのみち受け手は受け手なりに受けるのだし、編集の度合いがちょっと変わるだけだよね。ここの存在意義の8割はチラシの裏だしね。このぐらいでいこうかな!
ついに頭がおかしくなったか…とか思わないでね!いや、そう思われるのも悪くなさそう…実際もうおかしいのかもしれないし、そもそも何をもっておかしいというんだい?