先々月だっけ、入院するきっかけになった高熱。手足が硬直して不思議な感覚だった。熱で思考が上手く回らない中、ヤバいかなって思いつつも、その硬直と麻痺の感覚がちょっと面白くもあってそれが頭の中でぐるぐるって渦巻いた。ヤバいかなって思ってはいるんだけど、気持ちは安らかだった。前にもそういうことはあった気がする。
外から見れば呼吸も荒いし辛そうって見えるんだろうけど、弱ってる本人からしたら肉体的な辛さをそこまで感じる気力もなければ、不安になるようなことを考える思考にリソースを割く余力もない。だから辛い最中の辛さはそこまで辛く感じないのかもしれない。それを後から、元気になってから思い起こす場合、例え本人であっても元気な自分の感覚を当てはめてその時の経験を見るならば「あの時は辛かった」って経験になって上書きされるのかもしれないけど。
抗生物質だか何だかの点滴が強かったのか、それは凄く寒く感じた。手足の末端から芯まで冷える感じ。寒いのは本当に苦手だからとても辛かった。でもそれはその点滴に対する反応であって、本来は感じなかったものなのだけど。本来っていうのはそういった薬剤による対症的な治療。
因みに左腕の血管は3日間同じ点滴が入りっぱなしだったんだけど、血管が硬くなったまままだ元に戻らない。腫れは徐々に引いたんだけど。これ治るのかな。
話がずれた。何が書きたかったのかっていうと、病気か何かで弱って死ぬ場合って、自分の番になってみると意外と安らかなのかもしれない。少なくともその瞬間は。痛みや苦しみをそこまで感じるのは生きるためなのだし、それがもう必要ない段階ではそこまで機能しないのかなって。
僕が昔ふらっと死にそうになった時も、別の意味で全く不安や恐怖はなかった。思考が全く機能しないから風に吹かれて消える蝋燭の火のような感じ。本当にふらっと。でも何の因果かハッと気づいて、思考も感情もばーっと動いた。結果消えなかった。
だから僕はそのまま消えちゃう人の行動をどうこう言おうとは思えない。悲しい事故のようなものだと思う。そういう価値観を育めた分、あの風に吹かれような感覚は貴重な体験だったと思うし、今は生きてて良かったとは思ってるけどね。
だからたとえ辛い拷問の後でも、その瞬間は安らかなのかなって。
じゃあ12.7mmの重機関銃が頭部に直撃とか、爆発とかで瞬間的に意識が消えたらどうなんだろう。元気な状態のまま突然突き落とされたりとか、突然の事故で即死とか。よく分からないけど、もしかしたらこっちの方が怖いかも知れない。立ち眩みでそのまま倒れる時とかのサーって感覚が引いてスーって意識が落ちていく感覚もないままに突然消えるってなんか怖い。
そういって僕は、あの子を自分の過失で2週間苦しませた挙句殺してしまった自分を正当化しようとしているのだろうか。だとしたら許せない。確かに僕はあの子が苦しんでいるのを見たことで罪悪感が強く育ったのかもしれないけれど、苦しんだ度合いなど関係がない。僕の行為が一生責められるべきなのは、不注意という行動に対する戒めだから。そうでなければ合わす顔がない。
一体何を書いてるんだろうか。僕はこういう思考の時、僕は最期は苦しんで死ぬべきだろうなって思うのだけど、苦しんだところでそれが贖罪になるかと言われれば、それで割り切れるほど僕のこの思考の根源にあるものは軽くもないと思う。でも、重ければいいというわけでもないとも思う。いつ折り合いをつけられるのだろう?それを許すのは何なのだろう?
暗くなっちゃったなぁ。明日平日なのに申し訳ないから、お詫びに最近保存した画像を貼ります。ジャンル不問ね。
シーツの端が合わない
かっこいいドッペルゾルドナーフィギュア
ハロウィンおばけ
火力万能論
ラニアケア外視点
おばあちゃんの知恵
Be yourself
はい。お疲れさまでした。