感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

福祉から、平静状態とストレス下の思考

そういえば、高校時代だったかな、福祉の進路も考えたことがある。でも僕がおじいちゃんの手伝い(お世話とは言いたくない)が好きだったのは、おじいちゃんが好きだったからなんだよなと思う。

 

知らないおじいちゃんとかおばあちゃんとか、優しい人もいるだろうけれどやっぱり怖いもん。

 

それに何より僕は別れが苦手だからね。この辺は今の価値観になるから、当時は全然考えていなかったけど。

 

例えばある人が自分の死について、ある受け入れ方をしていたとして、それを僕が感じていれば、多分その人の受け入れ方で見送ることができると思う。

 

でもそうでなかった場合…

例えば、口ではこう言っていても死や何かに対する不安が漂っていたり、行き場のない不安をぶつけられたり、それ自体には耐えられたとして、もし別れの場面が来たら僕は多分その仕事をする立場としては再起不能になると思う。

だってその人なりに受け入れられていないものの先にその人は行ってしまうんだよ?僕はそれをただ不安からの解放として捉えることができるほど大人ではないから、そう思おうと努力しながらも、その人の不安の記憶、そして自分ができなかったことの後悔に押し潰されるだろう。

そのくらい脆い。

 

もし、死の影に怯えている人と繋がってしまったら、その最期を見届けたら僕はどうなってしまうのだろう?

 

だからといって怖れによって距離を取った希薄な関係を正当化しながらやっていくことも僕には難しいだろう。

 

だからではないけれど、福祉に携わる人って尊敬するな。

 

なんでこう、書くこと書くこと死生観とか価値観とか感覚とか記憶とか不安とかそんなことばっかりになるんだろうか。

鬱憤とかその辺は出切ったと思うのだけれど、こういうことばかりが頭を巡っているのは、結局固まった足場がないからなのかな。

分からないことが何なのか分からない。その影を追っても分からないことが分かるわけではないということは分かっているはずなのに。

 

自分が何を求めているのか分からない。僕が何なのか、どれなのか、どの辺りなのか、どの部分なのかも分からない。

 

感覚は感覚的には分かるけど、言葉に当てはめることも説明できる形にすることもできない。

その感覚を頭で理解しようとするのがまず間違いだというのも分かってる。でも感覚に、僕の感覚にただ従って生きるというのも今はできない。そこには明確な理由があり、でも僕は感覚に生き…

感覚を殺すという選択肢も今更ないと思っていて…

 

じゃあどうしたいんでしゅか?

なんかもう再教育よろしく脳内いじってもらった方がいいような気もしてくる。で、それで出来上がるものは誰なのだろう?少なくともこの疑問がないだけ限りなく僕なのか、それともその疑問がない以上僕ではない何かなのか。また極論かい?

 

死生観、そんなに死ぬのが怖いの?いや、その辺は何度も書いた通りだと思う。寧ろ生も分からず死も分からないことが問題であって、どちらかがわかれば。じゃあ死ぬ時になれば、死んだ瞬間答えは分かるのかと言われれば、分かるか分からないかのどちらかだとしか言えない時点で分からないという意味になる。

それって結局のところ死ぬのが怖いのではないか?まぁ、そういう僕も内在しているのだろうし、そうじゃない僕もいると言えばそれが正しい。じゃあ僕の答えはどうなのと考えると僕はどれなの?ってなる。そしてお前らいい加減にしろと思う。

 

落ち着いていたと思っていればまたいつもの堂々巡りだよ。知ってるよ。不安、ストレスが別の思考を優位にする。別の?そう別の。過去の。そう言える分僕はまだ正気。落ち着いている時のふわふわした思考の僕がより僕だという認識はあるわけだ。

いやまぁ、そりゃそうだ。落ち着いている時とストレス下を比べるなら当たり前じゃないか。じゃあストレス下の今の僕は僕ではないの?まぁ確かに、今の僕は平静時には今の形ではない。

なぜなら、そう平静時なら、今のような僕の存在も認められるから。どれも僕でいいじゃん?ってふわふわと。

バラバラがバラバラのままでもやんわりと。

 

じゃあこれを書くことに何の意味があるんすか?

でもほら、何となく分かった。何となく。でもそれは答えに直結しない。ほら、すぐ悲観的になる。ちょっとは安心したくせに。ストレス下の自分と平静時の自分の捉え方の違いだと。平静時ならどの自分も認められると。

 

本当に少し落ち着いた。そうだよなぁ。どれも僕でいいよなぁとも思う。今は。紙に書いて常に持っていようかな。

はい。

 

僕のような人間がこの価値観のまま街で死んだら怨霊になりそう。

やだなぁ、ストレス下で死ぬのなら、その時優位な君は怨霊なんて信じない癖に。

それに、介護されるぐらいならこの村で多少早く死ぬことを選ぶだろうし、その僕は死を受け入れるだろう?

 

実際にその時になって騒いでも、次の瞬間には分かっているはず。分かっていなくても。ほら、逆になった。

 

いつでも死ねるように毒を持ち歩くというのがあるけど、僕の場合は死を悟った瞬間に幸福感が溢れる装置なんかがあると安心できそう。まぁそれは禁忌だろうなぁ。

というか、そんなものは必要無いように生き物は出来てるとも思うのだけどね。本来は。

 

 

そうそう、終活っていうのもあるけど、そう考えるととても有意義なものなのかなぁと思う。遺される側にとってだけでなく、死ぬ側にこそ。それ自体が不安や恐れを生まなければ。

その瞬間を悟った時に不安や後悔の材料が沢山残ってたらと考えるとちょっと怖いしね。それは人間だからこそ、本来が通用しないかもしれないから?

 

まぁいいや。お開き!