感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

知覚 意識 僕の在り処と範囲

意識を向けるというように、知覚に対し意識はスコープのように感じられる。うっすらと感覚器官を跨いで全体に向けることもできれば、ポイントにフォーカスすることもできるし、それは思考や感覚、記憶を取り出したり、内的なイメージの中を彷徨う時でさえも同じ。

僕自身はそのスコープを覗いている感覚が強い。だいたい何をしていてもそう。

 

刺激を知覚した直後、知覚したものを意識して初めて知覚するわけではなく、知覚したものに対し意識が向いたか向かないかに限らず知覚はしている。例えばその意識されていない知覚は僕にとって僕のものと言えるだろうか?

ゴミ捨て場の刺激臭に隠れた花の香り、その刺激臭しか意識していない僕の外側で、僕の嗅覚に入り込んだ花の香りを僕は感じていない。でも…

ということがよくある。だから僕は僕の身体の中で迷子になる。

サブリミナルを思い浮かべれば分かり易いかもしれない。意識されないものが経験される。

 

人はやはり、知覚すべてを意識しているわけではないのだろう。スコープに映っていない知覚が保存されていたりもすれば、無意識下で思考していることもある。本当にややこしい。

 

記憶の宮殿という言葉を使えば、その宮殿の本棚に気付けば紛れ込んでいるものもあれば、作った覚えのない思考の結果が机の上に置いてあったりする(記憶されていないのではなく、意識的に作っていない物)。僕自身の宮殿のはずなのに開けることができないチェストもある。

更に言えば僕は、ミラーリングの結果なのか僕が入れる粘土の人形を内面に沢山作りだしていて、それを外界の理解のために使っているようなのだけれど、その人形達と僕が内面で会話する時、さあ僕はどれなのだろう?ってなる。いや、より主体としての僕は存在するのだけれど、それだけを僕と捉えていいのか、その人形達や他の潜在意識の中の存在達全てを僕と捉えていいのか、やっぱりよくわからない。

感覚的な僕と思考的な僕だって同じように相容れないのだ。この場は意識の外側を文字に残せるから、その垣根を越え易いのだけど。

 

内面でそんな状態だから外面はもっと曖昧。だからこういう時は自分の手を見る度に不思議に思う。

 

この内容は何回書いているのだろう。まぁ、もうちょっと続けさせて。

 

以前書いたように、リラックスしている時というのは、より全体的に僕は僕である。融和するというか。だからより外からの感覚に向かって広がっていく。統合っていうのはよりこっち側なのではないだろうか。機能順序があるべき姿にまとまった同一性っていうのかな。

 

僕の場合、ストレス下では相変わらず内面がバラバラなのだけど、それでも今は以前のような内戦状態のゴタゴタにはならなくはなったかな。

 

ただやっぱり不思議。

意識のスコープの手前(感覚的な順序)に存在する僕は僕にとってより僕なのだけど、それ以外の僕達(多重人格ではないけど)も僕として僕の中で同居している。でもこの視点の時、僕としてと今書いた部分の僕は一番僕ではない。それは僕の心臓は僕なのかという疑問に近い。そういう関係。全体として見れば僕の一部だけど、僕のこの意識からすれば勝手に脈打ってる存在。調和がとれている時は勝手にとも言えないのだけど。うーん、この微妙な例え。

 

要点は何だったんだろうか。僕が言いたいのは、意識のスコープの手前の僕がより僕にとって僕と書いたように、さらっと僕が僕と言った時の僕はそれなんですよ。

で、人は自分を当てはめて他者を見るから、僕は自然とそういう風に他者を見ている。

 

逆に端から外も内も自分は自分!っていう同一性を保った確固とした自分がある人もそういう風に自分や他者、そして他者としての僕を見る。

 

この2人の会話が自然に噛み合うはずがないじゃないですか。僕は僕という視点をこねくり回して転々としている分合わせられるし、合わせるけれど(そして多分相手も合わせてくれてるのだろうけど)、やっぱりあまり釈然としない。それってなにも会話だけでなくて、色んな場所に現れている。本を読んでいて似た感覚の作者だなと感じる(合うなぁって)ことが珍しいように、そして見つければ大切にしてしまうように、それぐらいずれているのかなぁと漠然と感じる。

 

でも実際の所どうなのだろう?序盤のサブリミナルの部分辺りは多くの人と共有できると思うのだけど、意識のスコープの手前の自分がより自分であるとか、ミラーリングや人形の部分はどの程度共有できるのだろうか。(因みに僕は『他者の感情を吸い取る』というのとミラーリングは厳密には別だと思っている。)

 

それがどうこうというわけじゃないけれど、ふと疑問に思った。

僕は自分の感覚をおかしいとか思う気はないし、だから人によってそういった感覚や捉え方、考え方が違うのは当然だと思う。そんな中で『自分』っていう根幹(それが根幹と言うのがいかにもで笑う)の部分の感覚が近しい人ってどのくらいいるのかなって。別にいいんだけどね。

 

皆は、自分自身をどう感じ、どう捉えているのだろう?

肉体そのもの?思考が中心にある?それとも感覚?知覚の主体?感情の媒体?往来する?合わせ鏡の間に居る?身体の中に何人もいる?集団の一部?身体の外側に居たりする?入れ子のどこか?他者の目の中に居る?夢の世界?記憶の管理人?橋渡し?

不思議。

 

それともさ、存在すらしなかったり?二重の意味で。いや、三重か。