感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

チャットアプリから コミュニケーション、調和の霊感

知らない人とのコミュニケーションに苦手意識があるから匿名のゆるいチャットアプリ入れてみたのだけど、やっぱ向いてないなぁと思った。ゆるいって書いてあるけど、全然ゆるいとも感じなかった。

まずTwitter的なつぶやきのタイムラインが出るけど、このつぶやきっていうのが僕は苦手ですね。Twitterも同じで、何書いてもいいんだろうけど、何書けばいいか分かんない。発話、口火を切ることの難しさっていうのは何だろうなぁ。何書けばいいのか分かんないっていうのは、つまるところ言いたいことがないともいえるのかも。

言葉が浮かんだとして、それを発信する動機が足りない。対面なら空気を停滞させちゃいけないって焦りが動機になる。そこに動機が要ることがおかしいと思われるかもしれないだろうが、発信することの意味とは何だろう。求めるものは。発散したい?共感や同意が欲しい?承認されたい?純粋に何かを伝えたい?最後のは稀だよね。本人はそう思っていても、その毒気からそうじゃないのがわかる。

 

自分が発信する前にタイムラインを見てそういうことを思ってしまうから余計やりづらくなるのかな。スモールトークとか、そういう会話も貴重だと思う。ただ問題は僕自身がそれを拒絶することなのだろうか。でもなぁ、やっぱり自分なりの、自分にとっての、となると価値が見いだせない。

つぶやきって何だろう。独り言?でも発信したそれは独り言なのだろうか。それを見て僕は「何が言いたいんだろう?」「何でそんなこと言うんだろう?」って思ってしまう。それは僕のフィルターを通すからであって、僕がそういう意図や意味なしの発話を無意識に避けていることの裏返し。

単純に向き不向き、求めるものの違いということでいいかな。

 

スモールトークかぁ。僕は別にスモールトークが嫌いなわけじゃない。ただやっぱり途中で「何してんだろう?」って思ってしまうし、そもそもスモールトークをしなきゃいけないような相手とのコミュニケーションはそれ自体が苦痛だっていうのもあるからね。

僕にとって貴重な出会いは、いつもそのステップを飛ばせるようなものが多い。互いに大丈夫だとわかるのだろう。逆にそうじゃない相手だと、僕は5年経っても敬語やらなにやらを盾に間合いを取ってしまう。

 

そうそう、つぶやき、口火を切ることについては不向きだと書いたけど、なんていうのかな、パッシブなコミュニケーションはそこまで苦手でもないと思う。応答。相手が求める物が分かればなお楽。楽だけど、それは正直なコミュニケーションじゃないから嫌いだし、正直なコミュニケーションは相手を選ぶからできないし、結局合う人以外とのコミュニケーションは身を削るんだよね。

そう考えるとやっぱりスモールトークも嫌いかなぁ。意識しちゃうとね。意識しなければ、ただ反応するだけだから…

 

ということで1日経たずに削除したのでした。苦手は苦手なんだけど、無理して克服するようなものでもないと思った。今は。別に会話できないわけじゃないしね。

 

 

最近も相変わらず過ごしてます。

体調面、まだ優れないのだけど、精神面は落ち着いてるかな。ただこう、何をしていても、外側に何か膜のようなものが張っているような感じ。どこか感覚がぼやけてる。

そうそう、今週はヴィヴァルディな気分でずっと聴いてる。この豊かで繊細で大胆で生々しい感情の動きのような旋律。これを求める時って、どこかでその動き、手を引かれて動く自分の感情を確認しているのかも。この人は多分、自分の感情をヴァイオリンで表現できた人だと思う。四季も外側に見たままの四季ではなく、昂ぶりや焦燥感も含め、内側を通しての表現だ。だから鮮烈で生々しいし、しっくりくるのだと思う。

 

ヴィヴァルディ、色んな曲が好きなのだけど、OP. 3(調和の霊感っていう協奏曲集なんだって)が好きなのだけど、今は第8番が凄くしっくりくる。音楽のことは全然分かんないんだけど、少し勉強した方が好きな曲見つけやすくなるかな。

 

現代は音楽が溢れているよね。

生演奏しかなかった時代の人たちにとって、それを聴いている時って本当に貴重な瞬間だったんだろうな。煩わしいと思ってしまうイヤーワームも、本当は歓迎されていたものなのかもしれないね。

 


Vivaldi - Concerto for Two Violins in A Minor RV522

 


Vivaldi - L'estro Armonico - 12 Concertos Op. 3 - I Musici - Roberto Michelucci - 1962

 

こういうコミュニケーションならなぁって。