感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

それぞれの事実 主観の孤独 意識の檻

僕のどんなに親しい人であっても、僕を生み出した母でさえも、僕という存在を認識するために、僕という存在をそれぞれの持つ感覚で捉え、自らの箱の中で再構築している。

それは恐らくそれぞれが見る僕という存在で、そしてそれはそれぞれが創り出す僕という存在だ。

その僕はどれも僕であって、この文章を読んだ人が構築した、より断片的なものから成る僕と同じく僕であるというのは事実だろう。

 

僕自身は自分の身体を動かし、意識を持ち、その人達よりは若干深く僕という存在を知っているつもりではある。でもそれも結局のところ、僕自身が必死に意識や無意識に穴を掘っては粗探しして、箱の中で造形しては破壊し、半ば狂乱状態になりながら創り出しているものに過ぎない。

 

ということはどれも僕であって、どれも僕ではない。写真と同じではないか?

その写真さえも…

 

僕自身に限った話ではなく、全ての物質がそうだ。恐らく非物質も。

では君と半分こにして食べたリンゴ、それは同じリンゴなのか?

 

僕が知覚し造形したリンゴと、君が知覚し造形したリンゴは同じなのか?

僕らの中に入る前までは客観的に同じだった?それが事実?

でももうそのリンゴの存在は僕らの中では上書きされているよね?それも別々の味や香り、もしかしたら色さえも違うリンゴとなってしまった。もうその同じだったリンゴは存在しないのではないか?こっちの事実はその事実と共存出来るの?

 

世界はなんて孤独なのだろう。生はなんて孤独なのだろう。

この檻の外にはどうやったら出られるの?どうやったら誰かが入ってきてくれる?

 

でもきっと、その内側にも、その外側にも檻がある。僕に意識というものが存在する限りは…