感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

予兆 位階とマインドセットの鎖 手相

予兆、兆し、それに対する見方も色々ある。

 

信じるというのは僕のやり方ではないと思うけど、予兆というものに気付くこと、そして兆しというものを単なる現象ではなく兆しと捉える力というか、そこは追及していきたい。僕のイメージでは、究極的にはコイントスの領域なのだと思う。

 

例えば、僕にとってその兆しという現象がこの先のとある現象の兆しとして認識し得るのは、自らをその現象と同じ環境の中の存在としてこの上なく溶け込んでいることであって、その現象と同じ時間的空間を共有することが土台にあり、その上の意識的な自分の位置付けなのだと思う。更に言えば自らもその現象の一部となって干渉し合う存在であることの感覚的な認識であって、研ぎ澄まされた感性というパッシブなもので得た情報を、よりアクティブな意志によって、思い込む力を利用するものなのかなって。

 

書いていて自分で意味が分からない。

 

吉兆か凶兆か、それを知りたいという意味ではなく、僕にとってその環境の中の自分の位置付けの問題であるということ。ちょっと分かり易くなった。

主体としてはマインドセット的な問題なのだけど、その位置づけというのが非常に大きな鎖でそのセット全体を繋いでいるところがあって、意識的に身を置くことをしないと切り替えるのが難しい。

 

「感性というのは何か」、特に文明生活の中でそれに振り回される人は、自然の中に身を置いてみて欲しい。その根本的な問いは呪いをギフトに変える力を秘めていると思う。

自然と同化する、自らをその中の一つであり複合であり干渉し合う中の複数ないし一つの現象となることを。その瞬間においてはその野性的な感覚がいかにその一部として作用しているかを感じると思う。

 

そしてその時、生き辛さも何もない、ただその中の存在として、現象として、『ただ在る』という状態の心地よさも感じると思う。

受け入れるもなにもなく、そう在って然る状態。それはどこか、腿を撃たれ鉈を手にする猟師を前にした牝鹿の眼差しを思わせるもので。それは強迫的に共有される時間の流れの中における死への恐れが何か、ということをも端的に表しているのではないか。

出る目に身を任せることに意義があるコイントスの領域はそこからだと感じる。

 

そして何かと翻弄されるイマジネーションも、色々なものが繋がってしまう思考も、全てその土台の上にあるということを再認識するかもしれない。

 

文明というものが長らく自然を超えた存在であり続けた代償(僕のような人種にとっては代償として)というのは、僕たちがそれに気づけない領域にまで入り込んでいて、例えばその位階の感覚というのも、共有してしまっているものだということだ。

 

 

火を使うのが当たり前となり、星の下で踊ることを忘れた人間が星に何を見るのか?ということだ。

なぜ流星に願うのか。受けるのが予感でも兆しでもないから、向けられるのが祈りではなく願いなのではないか。ということだ。

なぜ人智の結晶である暦は目安ではなく予定となったのか。予定が予定である上での祭に人は何を求め、なぜ神輿を担ぐのか。ということだ。

 

 

予兆。

その捉え方に僕が魅入られたのは、パウロ・コエーリョの『アルケミスト』からだった。

それは、7年間のジャングルでの生活での実感が、物語の砂漠の旅で主人公が感じる、自らの立ち位置と捉え方の変化に重なる部分があったからかもしれない。

 

そして物語の中の、ある種の隠者である錬金術師が、僕の求める孤高、僕にとっての高みと重なる部分があったから。

 

敢えてこの本の名前は今まで出さなかった。なんとなく。それだけ大事だったのかな。

このブログを始めたのは、その7年間とこの本の影響による僕自身の内側での大きな変化があったから。おっさんになった今頃になって、文字通り逆転した。理屈屋な部分と感情的な部分が。

 

その急速な変化に今も翻弄されているのだけど、2020年は新年早々の迷子で急に道標が欲しくなった。その『予兆』と同じ捉え方で、新しい見方が欲しくて、手相鑑定をしてもらった。以前なら考えられない行動。それもお金を払って求めるなんて。

 

僕が去年気づいたのは、僕のスピリチュアルに対する拒絶感は、宗教が宗教でありつづける意識的態度であって、それを許しつづける人間の精神性だということ。その根底にあるのもまた、教会が教会であり続ける、モスクがモスクであり続ける、スピリチュアルと呼ばれるもの達がまた宗教という鳥かごと同じことをしていることにあった。

 

でも僕は本来的な神道の精神にそれは感じないし、シャーマニズムには憧れがあった。そして、それらを分かつのが、その無意識にある精神的な位階のマインドセットの違いというか。僕がマテリアリズムに付きまとう意識にうんざりしていたのも同じものが根本にある。

 

だからこそ、そのスピリチュアルに対する先入観を拭うのは僕自身の僕自身に対する責務だった。兆しを読むためのツールとしてのスピリチュアルの一種として、手相を選んだ。クラウドソーシングで、ある程度人気が高くない方(僕にとっては誉め言葉なのです)を直感的に選んだ。

 

鑑定内容は書かないけれど、想定よりもとてもしっくりくるものだった。

手相は変わるというし、統計に近いという人もいる。僕の実感に当てはめるのなら、目が人の内面を何よりも語るように、手も語るのだろうと思う。

何よりその占い師さんの人柄と感性は、本当に短文しかやり取りしていないのに、僕の内面で求めている物を見抜いた洞察力は、お友達になりたいと思う程(この僕が)通じるものを感じたものだった。

 

そこで得たものから僕がすっと見いだせたのは、理屈屋の自分と感情的な自分の調和が早急の課題だということだった。毎度両サイドが強情なため交渉が難航し、棚上げしていた問題。

そしてその鍵となるものは、さっきから長々と書いてきた旧来的な位階的なマインドセットの土台であると思う。多分これは、このズレは、僕が生まれる時代を間違えたと感じる原因の1つなのではないかと思う。

 

極端に言えば僕にとっては、文明的なものと文明圏外(または前文明的)のもので、相容れないものである。でもその調和の感覚がより意識的に得られれば、心理機能という言葉を用いるのであれば、優位な機能を切り替えることで双方に対応できる筈なのである。(文明圏外側の性質が僕にとって本来的に優位であるという前提は必要であるとした上で)

 

手は以前からよく見つめていた。

その中で鑑定の為の写真を撮って初めて変化に気付く線が両手にあって、それについて聞いたの。健康線っていうんだって。しっかり休んだ方がいいと。

 

でも僕は強情だ。

それを兆しと捉えるか捉えないかの主体性は僕にないといけない。

そしてその僕の石頭は、ストレスで胃腸を悪くするのが原因で死ぬんだろうなぁというのが何となく腑に落ちてからというもの、その死や大病を避けようという意志を失い、寧ろ肯定する側についている。

兆しという意味で、その健康のサインというのが実感に根差すものであって、それは予感しているものでもある。でも「なぜそれを避けるのか」という部分が抜けてしまっていて。

 

オチはない。まぁ、なるようになるだろうと思う。

面白い経験だったということ。そしてそれは、積み重なり、蛇行する流れの中の一つの岩となるのだろうな。

 

今夜は星が昨夜よりもはっきりと見える。その羅列もどこか繋がっていて。昼の辛さが嘘のようにすっきりしているのは、風が流れているからだろうか。

 

 

おまけ

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最近拾った画像。僕がスピリチュアリティがスピリチュアリティ足り得てないと感じることが多いのは、この金魚鉢に身を収めている姿ばかりが見えるから。

今日は攻撃的かな