たまにはナウでホットな話題も考えてみようかな。
両生類のハイハイにしよう。
両生類のハイハイと聞いて真っ先に思い浮かぶのは、両生類とは何か(分類学)という疑問なんだけど、それはきっとその人達にとってはどうでもいいんだろうな。でもこのネーミング、気にしたら負けと思っても気になってしまう。動画を見て思い浮かぶのはナマケモノの歩行かな。
センサリーアクティビティも同じような疑問を持っていた。というかこれもセンサリーの一環になるのかな。
発達の為に必要な運動が十分にされない(ことが原因で立ち遅れる子供が出る)という土台に立って、じゃあ段階ごとに効果があるこういう運動をしましょうという考え。
先ずその遅れという曖昧な部分をどういうレベルでどういう範囲でどのように整理しようというのか。
例えば発達障害とラベルを貼られる子に対し、何か一つ原因仮説が見つかると全部それのせいにして納得しようとするような傾向が(特に発達支援を学ぶ親に)あると感じたことがあったけど、それってどうなのだろうか。それだけ思い悩んでいるのは分かるけど、救われようとしているのは自分ではないだろうか。自分が救われるための行為がいけないと言いたいわけじゃなくて、ただ、それを子供のためと言いながらやるのは逆だと思う。
こういう運動でも、カリキュラムでも、全員に適用するのは時期尚早というか、その前に考えるべきことがあるのではないかと思う。
安全ばかり求め、スタンダードばかり目指せば向かう先は同じだろう。一人一人の幅に焦点を当て、それを掘り下げることができないのなら、それもただの暴論になる。
それと同時に、光を与え闇を照らすという心持で続いてきた教育の一つの問題は、光と闇の見極めすら一人一人の教師の幅に大きく左右される点であることも忘れない方がいいと思う。それは時に、ではなくしょっちゅう、光(と教師が思うもの)の押しつけを生むことになる。
教師と生徒、教師と園児、その立場の違いの明確さを捨てられない以上、教育はその種の暴力の発生源であり続けるしかないと思う。それは避けることのできない割合の問題の面が大きい気がしてる。
例えば発達の中に自然を見る場合、子供全体に共通の自然があるのか、それぞれの子供に自然があるのか、子供以上の何かに共通の自然なのか、ある種の子供に共通の自然なのか、何か自然を見つけたというのならその部分の問いを明確にしないとならない。自然とは何であるか、その認識が変わり続ける以上、我々は個人として、そして全体としてその自然を問い続ける必要があると思う。
不自然はその上で語られるべきだろうし、その不自然が取り巻く環境によっていかに変わるのかも吟味して、ようやくその不自然が、例えば不自然の中で生まれる自然であると言うことができるのだと思う。対処を模索するのはその後の話だと思うし、その対処も、極力人はヒトとしての自然を基盤に考えた方がいいのではないかと僕は思っている。だいぶ前に回帰云々って書いた気がするけど、僕は回帰志向なのです。
まぁほら、自然に還れどうこうではなく(僕は自然に還りたいけど)、文明の中で人が自然を忘れたなら先ず自然に自然を学ぶべきだと思う。
センサリーアクティビティでやることは、自然の中で子供が勝手に、自然と学ぶこと、獲得することであって、それが損なわれる不自然な環境が先ずおかしいと考える方が僕は合う。
であるなら、なぜ両生類のハイハイだかを無理やり均等にやらせる必要があるのか。不自然に合わせるのは、全員が不自然という前提からなのか、取りあえず良さそうだから取り入れただけなのか、子供の発達に何かあればクレームが来るからなのか、全員に必要だという何か強い科学的な根拠があるのか、楽しいからか。
そもそも、無理やりやらせる時点で本来の理念はねじ曲がっている。自主性を重視して楽しくやる分には良いツールであると思うのだけど。
この辺りは(僕もまだ第一編も読み終わってないけど)ジャン=ジャック・ルソーがエミールの序盤で散々書いていた。それも250年以上前に。(問題のひとつの根本は、理念はいつもねじ曲がってしまうことにもあると思う。それも割合の問題であってどこでも必ず起きる。誰もが持っている性質を関係性が助長しているに過ぎないから、幅の要素に目を向ける必要があると思う。)
いずれにせよ、教師・園が彼らの基準で良さそうなLEDライトで照らしているから、子供が木漏れ日を浴びて自ら成長することを忘れてしまうのではないだろうか。1500ルクスの照明で照らし続けていれば、柔らかく温かな木漏れ日など見えなくなってしまう。
この理性を謳う啓蒙的な価値観ほど、理性を根本から欠いていたり意図の下歪んでたりするものだと思うから。それを起こすのが今の教育システムだと思う。知らないけど。
日付変わっちゃったからおしまい!多分これも私怨成分が濃いからまとまらないだろうね。
反対に言えば、僕のような偏った人間が僕の思う光で照らしたらそれはもう大変なことになるだろうという話だよね。良いという確信も人によって違うのだし。
無理やりまとめれば、カエルやイモリに謝れということかな。