感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

やる気消失現象 から

「やらなきゃ!」って思っていて準備も始めていたことでも、「やりなさい」とか「やっといて」と言われると一気にやる気が消失する現象は何なのだろう。

 

主体性を奪われるからなのかな。

そう考えると行動原理に『自分のやりたい気持ちに従う』っていうのが関わってるのかもしれない。

やりたい気持ちが大事なのか、自分の気持ちに従うのが大事なのか、どちらだろう。

やりたくないけどやろう!って思うこともあるから、多分後者なのかな。

 

やろうと思わないことはやらないし、人に指示されてもやろうと思えればやる気は出る。

自分が『やろうと思っていたこと』が『人に指示された』に変わるのが問題なのだろう。

 

僕がコミュニティと対峙するとき、励ましたり勇気づけたりすることも大事だけど、enpowermentが重要だという価値観がある。多分自分の中身が反映されていたんだろうな。

主体性も同じで、結局は自分に個人主義的な感覚があるので、それが反映されているのだろう。

 

主体性。学校が『主体性を育む』という理念を提唱しても、その感覚が教師にないと無理なんだと思う。でも『教えよう』という思いの強い熱心な教師ほどその感覚は持ち合わせていない。

主体性を育むという考え方もおかしい。主体性は誰もが持っているもので、それが優位か優位でないかの違いしかないと思う。それが教育の過程で片方(この場合主体性を奪う方)に偏るので、僕のような人間は不満やストレスしか残らない。でも多くは、気持ちよく従うことが出来る。

それを逆にしたところで同じことがおきるだけ。ただ反対側の性質を持った人たちが苦しむことになる。

 

ではどうしよう。子供を分別する?自分の性質を知ることは大切だろうけど、分けてしまうのは違うと思う。

結局は教育の在り方は社会の在り方の問題と直結する。教育も社会構造の一部であって、教育だけ変わっても意味がない。

 

フィンランドが学校教育から教科を撤廃するというニュースを見た。北欧のような教育は僕にとっては理想。でもその変化をフィンランドが起こしてこれたのは、北欧、フィンランドの人の性質に起因する。日本がそれを導入しても、大事なところはついてこない。

日本は日本なりに変化を起こしていかなければならない。

でも通念的に共有する、正しいとされる性質は煮詰まってしまった。そうなると変化自体が夢物語なのかもしれない。

 

受け皿の活動が増えている。そちらに期待するしかないのかも。でもその受け皿に入れずに消えてしまう子はどうなるのだろう。一歩一歩良くなると信じても、消えてしまうものは消えてしまう。

 

僕は子供が好き。僕自体が子供みたいなものだから。

僕は教師になろうかなぁと思ったことはあったけど、ならなかった。でもそれでよかったんだと思う。

もし教師になっていたら、割り切れない性格だから色んな矛盾にぶち当たって早死にしていただろう。はたから見る教師たちは難なくこなしているように見えるが、僕は自分がやると想像するとやっぱり無理だろうと思う。ひとりひとりでも重いのに、30人以上ともなれば重すぎる。

多分僕のような人間は教師を早期に退職するのだろう。難なくこなせる人ばかりが残るから、学校は凝り固まる。

 

社会構造が変われば教師になることを考えるけど、それは恐らくあり得ない。

だから今日は教育について考えるのをやめよう。

 

雨が降っている。適度の雨の音は心を落ち着かせてくれる。

多分、数万年、それ以上の単位でヒトは雨の音を聞いて、その時間はゆったりまったりと過ごしてきたのだろう。

なんでその雨の音を聞きながら働かなきゃいけない時があるのか、いささか疑問だね。

 

もう寝よ。