感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

僕の『見る』について 優位知覚によるフィルターと盲点

誰かに共感・感情移入したときに、「この人は何を見たのだろう?」「何を見ているのだろう?」というのがいつも先ず浮かぶ。それはかなり僕自身の感覚に基づいた言葉であって、これを所謂ちゃんとした文章に直すと「この人は今までの人生でどんなことを経験してきたのだろう?」になることが分かる。

極端に言えば、多くの場合僕の中では『経験した』が『見た』にそのまま置き換わるということ。いや、逆かな…。感覚的には『見た』が先に来るけど、”『見た』ということは即ち『経験したということ』である”から。まぁ多分どっちでもいいんだけど。

 

何故こうなるかを少し掘り返してみると、認知特性という言葉を使えば僕は視覚優位だからなのだろうと思う。視覚、再構築したイメージというか。以前やった認知特性のテストでは写真と立体で分けると立体の方が強かった。確かに人の顔覚えるのはあまり得意ではないし…。

視覚イメージを切り取って残してるというより雰囲気をイメージにして構築してるんだと思う。もっと言えばその中に住んでる。だから何もかもが幻想だって感覚が強いんだろうね。認めてしまえばそれも段々好きになってきたようだけど。

 

いちいち読み直さないけど、多分このブログの中には『見る』が多用されてる。そして『それ』『これ』が多用されているのも、『それ』や『これ』を内的に見ながら書いているからに他ならない。(っていうのはだいぶ前に書いた気もする)

それは僕がこのブログの用途として感覚(内向的直感や感情)の文字化を重視しているからで、自然といわゆる感覚的な言語になるし、僕もいちいちそれを修正しないから。(読んでいる人のことを考えてないわけじゃないよ!ただ、そもそも感覚的に通じない人はこんな文章読まないと思うから。なら細かいことはそっちのけで感覚的に繋がりたいじゃん?)

 

何を見たか

↓人は蓄積した経験によってその人の今が形作られている。その人がいかに今に生きていようと、今に生きるようになったその人も経験の蓄積によるものが大きいだろう(その経験の蓄積による造型が必然か偶然かはさておき)。

 

そしてその人が思考するときに無意識に参照している記憶も、慣れによって合理化され無意識に起こる行動も、今その時に感じた感情の根っこも、それらは全て過去に繋がっている。

その過去を詮索すると、記憶の回廊のところどころに象徴的なイメージたち(その多くはおぼろげで言語化できる形になっていない。はっきり見ようとすればするほど形を変えてしまう掴めないものたち。)が4次元的に折り重なっているのがわかる。

僕の無意識が参照しているのはそのイメージで、僕が記憶を意識的に思い浮かべようとすると出てくるのはそのイメージから認識できる形に加工された記憶によって構成されるイメージや動画、空間なのだと思う。どうあっても見ているのだ。

例外的に声や音も残っているが、それらにはやはりイメージが付随していて、参照した際に沸く感情も視覚イメージに繋がる。↑ 

↓↑内は僕の感覚

 

だから僕の場合それを他者にも当てはめて、その人は「何を見たのだろう?」「何を見ているのだろう?」ってなるんだろうなぁって。

 

じゃあ他の知覚が優位な人達は、聴覚優位や言語優位な人達はどんな世界を見ているのだろう?ってほら、この無意識なプロセスの中で僕にとってはやはり『見る』ものであることが前提になっている。知覚フィルター的な。

 

これは一種の、人間にとっての盲点なのだろう。もし自分の感覚で相手のそれを決め付けないこと、相手の生の感覚を尊重することに価値を見るなら、それが盲点であることを認識した上で頭を介在させる必要があるのかもしれない。難しいし、それをやったところでどこまでできるのかわからないけれど。

 

他の人達の感覚を体験してみたいな。

例えばさ、僕が何かを文字化するときに、そのものの形を保ったまま言葉の型枠にはめ込むのに苦労するし、その出来上がりのこれじゃない感にストレスがあるのだけど、それはそのものが手前にあるからなんだよね。言語優位の人は多分そのものの前に言語があったり、そうでなければそのものが自然と言語と融和しているのだろうか。記憶も文字や言葉になるのかな?記号?

それは時にすごく羨ましく感じる。勝手に想像して勝手に羨ましくなってるってなんか滑稽だけど。

 

例えば64+29を暗算するとき、僕の中では64とくっつきたくて仕方ない29が26と3に分裂して64と26ががっちゃーんして90になった所に3がすーっときて93になるけど、あるいはもっと大きい数でそれが上手くいかないときは脳内でいちいち筆算をやったりもするのだけど、数字や記号に強い人ってどんな風に計算が繰り広げられてる(ように知覚する)んだろう?すごい気になる。

それを僕が見たらマジックショーを見ているのとなんら変わらない反応をするんだと思う。

 

あとはさ、本を読むときに文字が声になって聞こえたりもするけど、聴覚が優位な人はそれを掴むのも上手いのかな?僕はその脳内朗読が通り抜けて行っちゃったりするから、やっぱりいちいち想像してイメージに作り変えないといけない。

 

感情を音で表したりできる人もなんか羨ましい。楽しそう。

文字をそのまま吸収すると表現する人、写真のように切り取って残すという人もいるけど、実際どんな感覚なんだろう?後者は記憶法として試したことあるから、なんとなくは分かるのだけど、それを本一冊分とか自然にやるのってすごい。記憶を参照するときもパッパッと出せるのかな?(僕の場合その記憶法は記憶の宮殿じゃなくて記憶の迷宮になってしまうし、知らない人が住んでて勝手に散らかしたりするから上手くいかなかった。その人が僕に統合されて宮殿が支配下に置ければ上手くいくのかな?でも引き出せない記憶が僕にとって引き出せない類のものであるうちは無理なのだろうと思う。)

 

文字をそのまま吸収した人は記憶を参照するときも文字が出てくるのかな?あれ?文字が『出てきて見える』ってなっちゃうとやっぱり違うのだろうか。

 

一回観た映画やちょっと読んだ漫画の台詞をいっぱい覚えてる人もすごいと思う。僕の場合は観た後の自分の感覚を元にふんわり残ってて、その中をチューニングしているとシーンの映像がぼんやり残っている感じ。共感的に観れたものなら中に入れたりもするのだけど、それ自体が僕が解釈して再構築した世界で…

本なんかもそう。あんまりしっかり残らないけど、ふんわり経験として吸収はしてる感じ。なんか危なっかしいな。そのうちどこぞのゲームの主人公みたいにどっちがどっちだか分からなくなったり別の自分に乗っ取られたりしそう。

 

 

ところで明後日の皆既月食、ここだと日が沈む頃には地球の影を通り過ぎ始めた辺りみたい。ちょっと残念。最近夕方雨の日が多いからどの道見えない確率の方が高いけど…

でも楽しみ!

 

 

あとこれ!最近刺さった(言ってみたかった!)やつ!


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この人は何を見たんだろう?とにかくとっても好きなのです。