感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

感情の動き分析1 "How Far I'll Go" from Moana 翻訳の壁

今夜は昨日書いたことをやってみようと思う。

もう夜中だ。内面と向き合おうとすると夜中になってしまう。夜になると霧が晴れる。

それは単純に僕のプライバシーが担保されるからなのだろうけど。鏡の中の自分の目の奥を見入るように、対峙しようとすればやっぱり夜しかない。

生活が自然と夜型になる人は、もしかしたら夜の方が何かに没頭できるからというのがあるかもしれない。没頭できるというのは安心があるのだろう。

それは外的な要因かも知れないし、バイオリズム的な要因かも知れないし、何かまた別のものかもしれないけど。

夜型はおかしいと誰が決めたのか。また始まった。

 

それは置いといて、本題。

掘り返すのは歌を聴いた時の感情の動きということだった。

やっぱり最初はこの2曲しかないと思う。映画Moanaから"How Far I'll Go"と"I am Moana"

 

このブログを始めるちょっと前に子供とMoanaを何回も見た。子供が飽きないのはいつものことだけど、僕も飽きずに20回くらいは見てると思う。

この2つの歌は何回聴いても涙が出てくる。溜まったものを解放させるように泣くことが上手くできない僕にとって、涙が出るというのは何度経験しても不思議なものだ。

放水でも決壊でもない。お漏らし?

 

How Far I'll GOから。

外から求められるものと内面の何かが求め導こうとするものが、折り合わないことの混乱、そして葛藤。という感じの、物語の始まりの歌であり主題歌。

 

歌詞を貼って、歌を聴きながら反応したところに色を付けていこうか。一応もう一度書いておくけど、これはその歌に対して僕が何を感じるかであって、その歌が何を語っているかは関係ないからね。感情の動きから自分の抑圧やコンプレックスを見つける、テレビの裏で絡まったケーブルのようになってる認知、感情、思考のプロセスを解きエラーの奥を見つめるための試み。

 


Auli'i Cravalho - How Far I'll Go

 

I've been staring at the edge of the water
'Long as I can remember, never really knowing why
I wish I could be the perfect daughter
But I come back to the water, no matter how hard I try
Every turn I take, every trail I track
Every path I make, every road leads back
To the place I know, where I can not go, where I long to be


See the line where the sky meets the sea? It calls me
And no one knows, how far it goes
If the wind in my sail on the sea stays behind me
One day I'll know, if I go there's just no telling how far I'll go


I know everybody on this island, seems so happy on this island
Everything is by design
I know everybody on this island has a role on this island
So maybe I can roll with mine
I can lead with pride, I can make us strong
I'll be satisfied if I play along
But the voice inside sings a different song
What is wrong with me?


See the light as it shines on the sea? It's blinding
But no one knows, how deep it goes
And it seems like it's calling out to me, so come find me
And let me know, what's beyond that line, will I cross that line?


The line where the sky meets the sea? It calls me
And no one knows, how far it goes
If the wind in my sail on the sea stays behind me
One day I'll know, how far I'll go


Source: LyricFind
Songwriters: Lin-Manuel Miranda
How Far I'll Go lyrics © Universal Music Publishing Group

 

はい。似てるものごとに色分けしたのだけど、混ざってるから微妙な部分がある。

 

never really knowing why 悲しさ、寂しさ。

だってそうなっちゃうんだもん的な。自分の行動一つ一つを説明できたら奇怪だと思う。でもいつもそれを要求される。

 

But そうなんだよね。分かる分かるって感じ。

言われてることは分かるけど、でも違うの!っていうのは外とのやり取りだけじゃなく自分とのやり取りでも日常茶飯事。そして何が違うかは説明できない事までがセット。

 

no matter how hard I try 寂しさ、孤独感への共感。
頑張っても理解されないことだらけ。それが頑張らなきゃいけない部分だと気づいてもらえないから。その孤独は集団の中の精神的な孤立。

 

To the place I know, where I can not go, where I long to be  共振的な感じ。なんというのだろう。

言葉にしようとするとぼやけているけど、存在や関わりを感じていて、でも現実といわれる世界に合わせればそこに行くことはできない。いつもその狭間で揺れている。

 

See the line where the sky meets the sea? It calls me 憧れ、同意、共感。
And no one knows, how far it goes 憧れを共にする感じ。

自然が呼ぶの。僕も森に呼ばれるからわかる。それプラス未知のものに惹かれる感じ。

誰も知らない事、それほど素晴らしいことってないよね。僕は地球上が踏破され尽くしている事実にいつもがっかりする。未知への憧れ。誰も知らない景色を見たい。

 

One day I'll know 安心感?

その予感あるよねっていう感じ。根拠のない自信かもしれないけど、一直線の想いに衝き動かされてる時ってこれを感じてる。

 

I know everybody on this island has a role on this island そうね。そうだよね。消極的な同意?
So maybe I can roll with mine 拒絶かなぁ。違う!って感じ。そっちに行かないでとも感じるのかな。寂しい。

上の段では実際そうだよね、それは僕も知ってるよって思う。 This islandというか、僕が中に入った社会はどれもそうだった。でもその役割は与えられる役割であって、なぜそこに合わない形の人間が合うように自らを削り取らないといけないのだろうって。ミスフィットのコンプレックス全開。そりゃ感情も動くね。

 

下の段は彼女が責任を受け入れる決心をしたのだと思うけど、どうも僕はそれが気に食わないようだ。どこか強い共感を通して見ている相手が、僕が認めない物に取られそうという感じなのかな。だから寂しい。拒絶については、僕の過去はその中にあって、でも今は違うと思っているからこその拒絶。それはその自分を内面に持っているという意味でもあると思う。

 

if I play along ifに安心する。

そんなものに満足する人じゃないからこそ葛藤してるんだし、だからその言葉が出るんだなって。あ、彼女はやっぱりあっちには行かないなという安心。まぁ映画全編何度も見てるから、当然知ってることでもあるのだけど。

 

But the voice inside sings a different song ここが一番揺れる。自分を見てる。
What is wrong with me? ここで涙が出る。

 

上の段は、そうね。うん。混乱に対する共感もあるのだけど、そう、自分の中にある違う歌を想起してる。トリッキーなのだけど、僕はモアナに対してその違う歌こそが進むべき方角なんだよねって感じるじゃないですか。そうするとそれが自分に返ってきて、僕自身がそれを認めたかのように感じるわけだ。「ほら見ろ」という感じと「分かってるじゃないか」という感じと「お前は違う」という感じと、いつものあれなんだけど、色々混ざって頭が痛くなってくる。

 

そこで下の段が来る。

感情的には解析不能だけど、多分上の段からそのまま自分に対してその歌詞が繋がるからだよね。歌詞の谷間で自分に入れ替わってたんだ。その上いつも感じているWhat is wrong with me?だからね。涙が出るのも納得する。

 

ノーベル〇〇君(僕の本名)賞ものの発見だね!徹夜した甲斐があった。

2:15…正直もう満足なんだけど、あとちょっとだから全部やる。I am Moanaもセットでやろうと思ったけどそれは別の機会かな。

 

But no one knows, how deep it goes これは前出と同じ。でも繰り返しで確認されてより強い、確信的な憧れになってる。
And it seems like it's calling out to me, so come find me 自分が自然の中にひとりで居る時のような、爽やかな感じ。これもなんか自分を重ねてる。

自然に向かって語りかける時(といっても実際に声は出さないよ?)ってこうやってやり取りをしてる感覚になる。一部として溶け込んでいる時の感じ。

 

And let me know, what's beyond that line, will I cross that line? 励まされる感じ。惹かれるような憧れ。

これはなんか、モアナさんのその衝動に従う強い心というか、それに強い憧れを抱く。自分で自分を雁字搦めにする人間なので、時々書いてるようにそれを解き放ちたいと感じていて、それをやってのけるモアナさんへの憧れなんだろうな。

この部分、歌詞的には疑問形なのだけど、歌も映画の中の映像も、地平線の先を見るという意志とそれを越えるという確信に満ちているからなんだと思う。

前の2段までは僕の中にあるけど、この3段目のタンタンバーン!的な跳躍って凄く憧れる。そうなりたい。タンタンっときてうーん…やっぱり…で終わるからなぁ。

 

The line where the sky meets the sea? It calls me これも前出と同じなのだけど、より強くなっていく気持ちと共に、受け取る僕も高揚してる。憧れや衝動が強い思いとして固定されていく歌なのかな。

 

 

楽しかったけど想像以上に疲れた。全体通して考察するのは後日にしようと思う。と言う時に限ってそれをやった試しがないのは秘密。

 

 

あ、そうだ。この映画に感動した当初、友達に伝えたくなって歌を日本語版と聞き比べたんですよ。それでやっぱり僕がその友達に伝えたい部分は伝わらないなって思ったのです。

特にディズニーはその傾向が強いと感じるのだけど、吹き替え版だとやっぱりかなり違ってくる。

 

翻訳って文字数的な制約とリズムの制約がある中で無理やり全く違う言語を使ってはめ込むのに、言葉として不自然でもいけない。それって本当に難しいと思う。その上翻訳者のフィルターを通してその人が感じたものを再構築していくわけだから、経験的なニュアンスは失われてしまいがちだし、文化的なニュアンスは省かれがち。

 

ミュージカル部分は役者が感情を込めて歌うわけだけど、元々の映像(視覚的な感情表現)に再構築された歌詞(言語的表現)に役者の歌声(音声的な感情表現)が合わさるわけですよね。

元々の映像や恐らく参考として元の歌を取り込んで、新しい歌詞に合わせて感情を乗せることになるわけだけど、そこで役者や指導者のフィルターも入る。

 

だからこう、元を重視すればチグハグになってしまうし、流れの自然さを求めれば内容が変わってきてしまう。

ディズニーかディズニージャパンかしらないけど、日本語版は流れの自然さを選んでる気がする。だからこう、別作品として見るにはいいけど英語版と日本語版の間では深い部分で感想を共有したりするのは難しいだろうなと思ってる。僕は住んでる場所の関係もあって見るのは英語版ばかりだから、それがいつも寂しい。

 


「モアナと伝説の海 MovieNEX」 ♪“どこまでも ~How Far I’ll Go~”

 


【初心者英語】How Far I’ll Go from Moana の歌詞を和訳してみた

 

 

これは日本語版と直訳字幕。

日本語は日本語として自然なのだけど、かなりコンパクトにしたせいかモアナの性格まで変わって聞こえる。声は好き。

 

直訳字幕は一見すると入ってきづらいけど、音声は元の感情が入ってくるし、経験的なニュアンスは言語を越えるものがあるので、それが入って来やすいと思う。

吹き替え派と字幕派のいざこざがあるけど、もう別の作品になるという意味でも、作品によって違うと思うんですよね。と、それらしいことを言ってみる。

 

だから僕、いつもMoanaって書いたりFrozen2って書くんですよ。モアナとアナと雪の女王2は別作品として捉えてるから、邦題で書いてしまうと違和感しかない。

 

 

日本語版の歌もそれはそれでいいと思うのだけど、英語版を先に見てしまうからか、日本語版の歌を聴くと違和感やガッカリ感がかなりある。それは元の方に感銘を受けてるっていうのが大きいと思う。

だって元々の物は、映像、歌詞、メロディ、効果音、役者、その他諸々が一つの作品という像に向かってすり合わされてる。ディズニーはキャラクターの人格を作り上げるのに心理学的な要素も入念に練り込まれているように思うし、フォーカスが当たるキャラクターの性格に因んだ経験的な要素も色濃くなっている。そこから出る癖やニュアンスまで翻訳で再現するのは難しいだろう。

 

英語が優れているとかの問題じゃなくて、その逆もしょっちゅう経験するわけです。

例えば日本のアニメは人気でこっちでも見るけど、英語版はこれじゃない感がすごくあるし、ここの言語になると語彙や表現が少なすぎてなんかもう…ってなる。

そう、日本語は表現の幅がとても広いと思う。擁護ではなく、本当にね。

広い所から狭い所に行けば、ん?ってなるし、狭い所から広い所に行けばより解釈の幅が広くなる。幅が広くなった時の差異は何に依存するのかという部分も考えると面白そう。

 

翻訳の壁というのは、大小様々な壁がいくつもあって、それを越えるというよりも、すり抜けるためには文章が形を変えていかないといけないってことなのだろう。それはワームホールを通り抜けるように、ばらばらになって再構築されるということを繰り返す的な。さらに最後に、受け手という最大で最初のフィルターに到達するから、それ次第と言えばそうなのだろうけど。

 

超長くなった。深夜のテンションやばい。3:30。さっき時計見た時から1時間15分経ってる…

おやしゅみ!