僕は住んでいるところややっていることの特殊性から、必要に迫られて発信することが多かった。日本に帰った時は小さな発表会を受けることもあった。
FBはなんだかんだでROM専としてまた見るようになったのだけど、発信のハードルは更に上がった。
やっぱり本名の、周りから認識されている僕は虚像なのかなという思いが強く、発信すればするほど虚像が承認されるような気がして虚しくなる。
虚像が認められるほど僕は外側からそこに縛られ、僕から遠ざかっていく。と言いながら虚像が崩れることも心配しているのだろうけどね。
発信や発表に反応も貰うし、勿論それが嬉しいと感じる時もあるのだけど、近年は気分が乗らないのに必要だからと思ってやっていた。そうこうしている内に本当に必要なのか分からなくなった。
楽しみにしてると言ってくれる人もいるけれど、僕はそんなものを認められたいとは思っていなかった。それはそこに色んな条件が見え隠れするからだろう。勝手な評価基準に縛られず、ただ僕を見て好きか嫌いかを判断してくれる人はごく少数だった。
条件付に承認されるぐらいなら、像を押し付けられるくらいなら、僕を見ないでただ写真を、そこに写る動物や景色を好きだと感じてくれる人の方が僕は付き合いやすい。
勿論人は程度の差はあれ像を作り出して物事を認識するわけだけれど、目の前に僕がいるのにそれを見てくれない、目線が合わないのは寂しいと感じてしまう。
そして彼の見るものに僕は合わせなければならなくなってしまう。そんなもの破壊できればどんなに良いいことだろう。
内面を見てくれとか言ってるわけではない(それはそれで色んな人にされたら嫌。何と我侭なのだろう!)。せめて仮面を見てくれるならそれは一応は僕なのに。
発信という行為そのものについても、必要だと思わされていたし、必要だと思おうとしていた気がしている。主体的という部分が既に欺瞞だった。
発表会や仕事や、そういった繋がりの中で大切な出会いというのもあったから、それ自体が無駄だとは言わないけれど、ただ今は疲れてしまった。
そういう表というわだかまりに惑わされることなく書きたいことを書くことができるこの場は、自分との対峙や思考の整理だけでなく、恐らく表現の場としても僕にとっての大切さを増している。
僕は表裏がかけ離れすぎてしまった。ここで言う表裏は自我と影とかそういう深層のものではなく、皮の外側と内側、表情と心情、くっついて取れなくなった仮面とその下の表情。像はその更に外側にあるもので、その要求を読み取ると表はそれを追ってしまう。仲介者のようなものだから。
先日ジム・キャリーの3年前くらいのインタビュー動画を見ていて、これだなぁと思うものがあった。彼とは鬱というものの捉え方も合う。
彼は役者として物理的には大成功したのだけれど、他の役とともにジム・キャリーも演じていたと語っていた。名前が独り歩きしてその像でしか見られなくなる。
自分を見失うことは本当に辛かったと思うけれど、本当にいろんなことの連続の末、彼は彼の長い夜を越えることができた。そして自分の中でジム・キャリーとして出来る何かを見つけたのか、演じる側にも復帰しつつある。すごいなぁと思う。
僕は彼と違い、物質的な成功は経験していない(できることなら不労所得で子供の学費を確保していつか隠遁か漂泊したい!)。恵まれている方だとは思うけれどね。
経験の中での変化という意味で、彼のインタビューを聞いていると、プロセス的には似たようなものをたどっていると感じる部分がある。
僕は自分に像が作られるのが気に入らないし、僕自身が僕の像に縛られることが気に入らないし、相手にも自分にもそして色んな事物に対しても像やレッテルばかりを見て会話し、感情すらそれらにぶつける人が気に入らなかった。
それでも自らの像を維持するため、そしてそれを大きく見せるために努力をすることが大事な人もいるのだし、それ自体は認めたいのだけど、それを僕に当てはめられるとやっぱり凄く嫌な気分になる。
でも、それ自体は故意ではないのだから、諦めるしかないだろう。
逆にそういった相手と会話する時はこちらも気をつけなければならない。その人にとっては自分の像が自分自身なのだから。それでも正しさというものがないのなら、何事も先ずは尊重するべきなのだろうとは思う。(という考えが難を呼ぶことが多いのはわかるのだけど…)考えも捉え方も違う中で自分の見え方を強いるくらいなら、譲れる方が譲ればいいという意味の分からない譲歩思考。生き辛さが自業自得と言われても反論できないね。
像。
僕は井戸の底の住人であっても定住者ではないし、自己否定的であることが多くても自己否定者ではないし、今は迷子でその先が見えなくても永遠の迷子ではない(と思いたい)し、僕の本名が僕を意味するとも思わないし、僕の顔が僕だとも思わないし、3分前の僕がこの瞬間の僕だとも思わないし、僕の認識する僕が僕のすべてだとも思わないし、まぁ僕がなんなのかなんて多義的な質問に対する回答は出ないのかもしれない。出たら出たで否定しそうだしなぁ。
その瞬間の感覚や気持ちはその瞬間の僕のものである、という感覚から、少なくともその像は僕ではないと感じる。極端に言えばそれだけの話。
像に向かって話しかけられたとして、それに合わせようとする習性さえなければ少しは違うんだろうけどな。
承認とはよく言われるものの、承認は承認で難しいものだとつくづく思う。
色んな見え方があるからこそ人間関係は難しい。でもだからこそ、色んな見え方があることを肯定したいのならば、彼らの肯定、承認の仕方も認めるべきなのだろうか。
自分というものが揺るがなければ、それを気にせず自分の基準で価値ある事だけを発信できるのだろうけど。
でもこの虚像、レッテル、偏見、バイアス、評価、条件付きの肯定、思い込みの承認、価値観の押しつけ、そういったものが溢れて無意識の内に人を傷つけ、人が傷つけられ、死ぬのはやっぱり悲しい。それらをそういうものだと認めるということは、彼らの死が単なる犠牲だと認めることと同義ではないだろうか。
何で僕の視点はいつもそちら側なのだろう。縛られないつもりなのにな。
煩わしい世界から飛んで行ってしまいたいね。そうすれば、僕が僕であろうがなかろうが、そんなことはどうでも良くなるはずなのに。