感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

Dark Night of the Soul

Einzelgängerの新しい動画が凄く、なんだろう、これなんだよなぁってなった。

10分くらいの動画だから気になったら見てみてね!他にも沢山面白いのがあるよ。


The Dark Night of the Soul (Losing Who We Thought We Were)

 

Soulとか魂とかっていうのは僕はまだ理解できないからそれは置いといて、内面に見つけようとして迷子になっての繰り返しは正にこれと同じなのだと思う。

 

 

何回も見たけどもう一回見ながら気になった部分を抜き出してみる。

取り敢えずこれは"Dark Night of the Soul"や"Spiritual Depression"と呼ばれるもので、この混乱は過渡期の経験らしい。Spiritual Depressionは日本語で探してもなかなか出てこない。僕自身、鬱の原因を物質的なものと精神的なものに分ける発想がなかった。無意識の内に、「物質的な要因が精神面に作用して精神・肉体双方に影響を及ぼすもの」という固定観念があった。

 

何と言うのかな、波としての鬱自体は誰もが持つものだと思うのだけど、それとは別の迷子の喪失感というか、絶望感というか、無力感というのは、確かに要素として物質的なものも絡むのだけど、根底にあるのは精神的なもの。

キリスト教が宗教としてその辺りを良く知っているのは、その出口を神、そして愛に見出した人が多数いるからだろう。キルケゴールさんなんかもそうだと思う。

 

通信制大学時代、友達の教会に遊びに行って感じていたのは、神に対する愛によって救われている人々の歓びと安心感、それと同時に引き返せなくなる恐怖だった。完全にはまったら出られなくなる恐怖というか、その要素が自分にあるのは知っていて、それに対しての嫌悪というか。それ以外に妄信的な人に対する嫌悪もあって、宗教=妄信の危険に繋がっちゃったのもあると思う。若かったからね。

 

過渡期。

何年間過渡期やってるんだよって思うけど、多分自分なりの何かを見つけるまではずっとなのだと僕は思ってる。掴めるものがないんだもん。そして掴めるものは多分、自分なりに見つけるしかないっていうのは分かる。でも見つからない。拒んでるのかもしれないけど。

 

満たされること。

3:59 - Even relationships and romantic love affairs don’t gratify our hearts in the ways we had hoped for.

 YoutubeのTranscript機能便利!

常に穴を埋めるもの、というかなんで穴が開いているのかを探すわけだけど、この部分がとてもよく分かる。愛というもののある側面ばかりが神格化されてしまうからか、これに罪悪感すら感じることがある。

 

04:13 - I quote: They grow up trying to adjust themselves to the values and strivings that surround them, but somehow their hearts are never in it.
They have a deep awareness that fulfillment cannot be found through acquisition and achievement.
They often feel like misfits because of the different, deeper, ungraspable love they feel inside them.
End quote.

これはGerald May著の"The Dark Night of the Soul"からの引用らしい。周りと僕という関係はずっとこんな感じだった。本当に割と最近までfit inしようとはしていたわけだから。その度に「違う」って頭ではない部分で反応する。そして頭は僕を責めるわけです。

 

07:06 - Therefore, the union that comes through the dark night of the soul entirely revolves around love.

It’s the Lover seeking union with the Beloved, which is the divine.
And the divine is in everything and everyone.
When we become one, our emptiness is filled.

 とてもよく分かる。とてもよく分かるのだけどどうしていいか分からない。

結局は愛に対する迷子というのは分かる。そこにそれを見ている以上、「愛などいらぬ!」とかどこかの聖帝のようなことを言って解決する問題じゃないわけです。それは縛られている行為だから。

内的に気付くしかないのだろう。

でも残念ながら似非ムスリムと化した僕は神を見つけようという気力もない。説明書は読まない主義だからね!はい、ただの面倒くさがり屋です。でもそれもこれも、彼らの解釈が氾濫してるからであって…

 

感覚的には、記憶のどこかに紛れている優しいお姉さん。

 

07:59 - It’s a process of giving up control and becoming receptive instead of defensive.

こう繋がるというのも面白い。

コントロールが自己防衛反応だとすると、受容的になることは呪縛を解くことに繋がるのだろうか。ここはゆっくり掘り返さないといけないと思う。自己がバラバラな癖に内面も外面もガチガチの支配体制で、内面には僕の意識が踏み入れない場所があるし、拘束衣を着ている子供も居るから、どうにかこう、全部を解き放ちたいと思ってしまう。なぜかってそりゃ、不安であって恐怖であるから、やっぱり防衛なんだよね。

でもそれをするようになった動機はどうだろう。外側にある、例えば村八分にされることに対する恐怖だろうか。それとも内側にある、例えば誰かを傷つけることに対する恐怖だろうか。混じり合ってるのだろうか。

真の受容とは何だろう?でもそれを考えた時、まず考えなければならないのは、僕自身がそれに値する人間なのかということだ。無理だろうなぁ。その捉え方が既にズレてるのだろうけど。

 

呵責。痛めつけ合うものが肯定し合うためには統合が必要なのだろうけど、どうも頑固だ。意固地。何を間違えているのだろう。

 

 08:04 -  During the dark night, we are losing who we thought we were, while not yet having become what we’re supposed to be.
We’re in between.
We can’t go back, but the way ahead of us is dark and unknown.

何で迷子と感じ続けているかって、先が見えないからなんだよね。もうなんか迷子がアイデンティティとして定着しそうなの。疑念疑念で自分の存在さえもよく分からないから、存在そのものがエラーのような感じさえする。

 

 08:48 - Thus, as far as John and Teresa are concerned, the only thing we can do is endure, and before we know it, the dawn will be upon us.

今朝最初にこの動画を見た時、この部分でちょっと泣いてしまった。夜明けは本当にくるのだろうか。それを見る前に死ぬような気がしないでもないけど、でもどこかに夜明けは必ずあるというのは希望だよね。そしてそれを見た人がいるというのは、本当に嬉しいこと。夜からの解放。個人的に祝福したい。

 

今日また子供がFrozen2を見ていて、この映画にも毎回泣かされる(恥ずかしいからその姿は誰にも見せないけど)のだけど、この映画で僕が泣くポイントも同じなんだよね。モアナも同じだった。

見つけて迷子じゃなくなる瞬間。それは、見つかる瞬間でもある。

 

見つけて欲しいの?拒んでるのに?ツンデレってやつかな。