感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

感情の動き 爆発 首チョンパ

怒りが価値観のコンパスという。それに当てはめるなら共感的な悲しみは抑圧の地図なのかなと思う。

特に感情が内向きに一方通行になりがちな僕にとって、外から受ける感情の動きは内面で経験的な事実(それは様々なシミュレートや刷り込みも含む)がリファーされる過程で起きている。

 

不安は類似のネガティブな経験や大きな変化の予感であるし、恐怖はより直接的で具体的な危機的経験を避けろという警告だろう。

 

直接的な一対一の憎しみが影の投影なら、それが愛と背中合わせに存在するというのは当然のことだ。

統合を求めるために許すことが重要だというのも、外に見ている憎しみの対象が内面の鏡を通して見る自分であるというということから思えば、結局それは自分の片割れと仲直りするために必要であると繋がるのも分かる。

自分が自分と仲直りすれば外に憎しみが見えなくなるのも当然だし、それが愛になれば外側から包み込まれるというのも納得がいくし、全てのものに感謝を覚えるというのもとてもよく分かる。

でも同時に、それを全て否定し拒絶するのがこの頭。いや、彼も気付いている。でも認めることは絶対にできないから抵抗するのだ。なら殺せと言われても、置いていけと言われても、見捨てろと言われても僕にはそれが出来ない。

こんなに反発し合うのに共依存かのごとく。バラバラのかけら人形達は決定的な介入をしようとせず、ただ衛星のようにぐるぐる回りながら言いたいことを言っている。

 

 

ところで、何かを想い浮かべて真っ先にスクリーンに映るのは何ですか?僕はいつも大きな爆発です。燃料気化爆弾や核実験、水爆の映像、超新星爆発やビッグバンのイメージ映像、バンカーバスター、クラスター爆弾の弾着シーン。

 

外からの刺激が苦手なだけで、内面では派手なのは好きだよ?穏やかとはよく言われるけど、内面ではそれはもう…そりゃ穏やかと言われれば否定するよなぁと思う。あれは、他者からのポジティブなフィードバックを自分が肯定できないのはそういうことなのかな。なんかちょっと発見かもしれない。メモだけ残して今は置いておこう。

 

 

爆発のイメージ、それは感情の抑圧からきているのかなと思っていたけれど、でもあれは感覚的には噴出だからちょっと違うと思う。

最近思うのは、どこかで破壊とリセット、というか新生を望んでいるからなのかなって。

降伏しないから吹っ飛ばせって中々アメリカンだなと思うけど。(戦争経験者の人が見かけて嫌な気分になったらごめんね)

まぁそれぐらい頑固だということ。だからこうやって泥沼に足をとられたまま朝が来ない。

どうしたらいいのだろう。

 

そういえば子供の頃、浪人に散々追われて首を刎ねられる夢を見て、脂汗が吹き出て心臓バクバクの目覚めがあった。刎ねられた首が地面に落ちて、その浪人が走り去るのが見える主観の夢。主観の夢って僕の中ではそこまで多くない気がする。いや、長期的に記憶に残るのは主観が幾分か多いのかな。それは結局のところ悪夢で、悪夢は主観が多いってだけなのか。記憶に残る部分という極々一部しか分からないから意味の薄い考察だね。

 

 

とにかくその首チョンパ(懐かしいワードが出てきた 笑 調べたら鉛筆のおまけのことなんだって。僕の頃は言葉だけが生き残ってたんだなぁ。今の子も首チョンパって言うのだろうか?)の夢はとてもリアルでいろんな感覚が伴う夢だった。

なんで今これを思い出したかといえば、朝を迎えるにはそうするしかないような気がしたからだと思う。そのぐらい彼は頑固なのだ。いや、両方そうなんだろうな。

それだけじゃない。僕が臆病で変化が怖いのもある。僕ってどれだろう?自我が怖がってるなら欺瞞だろう。

またその堂々巡りを始めるからミニットマン3を打たなきゃいけない気がするんじゃないか。もういいから双方諸共吹き飛ばして真っ更にしたい。そんなことばっかり考えてると若年性認知症になるんだろうな。気楽に生きたいのに。

 

心裏腹。逆から見れば頭腹裏なんだろう。スパッといけないかな。また始まった。

 

そういうことを書きたかったんじゃなくて。

抑圧、コンプレックス、トラウマ、この辺りを掘り返さないとエラーの根元が見えない気がする。過渡期の中で足が抜けなくなったのは分かった。どちらに行くべきかもわかってる。どうしてそれが起きてるのかも何となくわかってきた。

 

ではどうして進むべき方向に足が進まないのか、どうして片足、半身だけワームホールの中に突っ込んでいるような状態(「わかっているんだけど、でも~」という思考の癖と化している。分かっているのは頭ではないから頭ではわかってない、と見せかけて本当は頭は分かっているけど認めることを拒絶する。)から進むことができないのか、そしてなぜそれを考えるとエラーしか起きないのか。この辺をどうにかしないといけない気がする。そしてそのエラーはこの領域な気がしてる。

 

例えば何かの歌を聴いたとして、僕は先ず感情が動くのに気づくのだけど、なんで動いたのかが中々分からない。でも特に、涙が勝手に出るような強い感情の動きは、反応している部分に注目すれば抑圧に繋がっていく。(最初は別に悲しいわけではなく、なんか面白いなぁとか感じるのだけど、やっぱり抑圧に視線を当てると深い悲しみがある。そしてそれをもっと知りたくて繰り返し、聴くと直接的に悲しみが訪れるくらいになると抑圧の顔が見えてくる)

かと言ってその後どうすればいいのか分からないのだけど。

 

結局、共感は自分の経験の内外を通した再確認であって、その気持ちを相手に投影している部分があるのかなと思う。だから感情的には紛れもなく相互の作用であって、しかし現象的に見れば個別の現象なのかなぁって。実感という意味では、じゃあ相互でいいじゃんって思うのだけれど。

 

あと、僕の内面が理解を示そうとする先がやたらと多いのは、相手を理解するために無意識に行っているバラバラ人形たちをこねくり回す主観的なシミュレートで積み重ねられた内的な経験が、自己の感情経験として貯蔵されているからなのかなぁとも思う。

これ文章になってるのだろうか。なんかもうよく分からない。

 

休憩。 

 

 

さっき感情の動きと書いたけれど、僕が好んで聴く歌は多分それを求めて聴いているものが多いのだと思う。何の確認作業か分からないけど。

でもそれでは動きだけしか見えず、靄が靄のままで終わる。何かがあるなら解読すべきだとふと思った。刺激に反応してるだけだと多分見えてこない。

ということで次は歌を聴きながら僕の感情の変化を書き留め、もやもやっとしたものを固定して顔を見てやろうと思う。

固定して思い込んだ自分になってしまうのが怖いけど、まぁ一つの試みということで。

 

ある意味外側で何も手に付かないから内向きに何かやってないと不安でしょうがないのかもしれない。気分的には「泥沼から足が抜けないなどは戦いを放棄する理由にはならぬ。足がやられたら口で噛みつけ」の精神。アメリカンと言っておきながら大和魂発言。インパールに突き進みそう。

 

金曜は疲れてるんだろうなぁ…

何故かジンギスカンが食べたくなるなぁ…