感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

僕が髭を伸ばしている理由、剃る理由

なぜ髭を伸ばしているのか聞かれる。答えるときは特に理由はないと答えるのだけど、本当は言いたい答えがあってうずうずしている。

 

まず、僕は髭を伸ばしているわけではなく、髭が伸びてくる。髪の毛も一緒。髭は今までの人生で一番長くなっていて、顎鬚があと1cmで人差し指の長さになる。

 

伸びてくるんだよ。だからなぜ髭を剃るのか、髪を切るのか、腋毛や他の毛をムダ毛といい処理するのか、そっちの方が僕にとって疑問になってくる。なぜ自分たちから自然と伸びてくるものを嫌ってまで処理しなければいけないのだろう?ある意味そちらの方が強迫的ではないだろうか。

そもそも、自分の髪や髭が伸びた、より本来的な姿を知っている人はどれくらいいるのだろう?

僕は知りたかった。それを知らずにただ、悪いイメージを与えると良くないと思う人と会う用事がある度に剃るのは何か滑稽だとも思った。

 

環境にもよるのだろうけど、通常ある程度の長さで止まると思う。抜けるし生活によっては千切れたりもするだろうし。そういうのも、自分の身体ではどうなるのか実験できるのに、剃らなきゃいけないから剃るというのはもったいないと思った。ここは髭に対して割と寛容だから、それを試すには丁度良いのだ。

 

 

ムダ毛や髭を剃る理由。

それを見ることで不快に思う人がいるからと言う人がいる。他人を不快にしないということは一つの価値だけれど、ではなぜその人は不快に思うのだろう?その人が例えば誰かの処理していない腋毛を見て不快に思うということは、ある意味で本来的な姿の否定ではないだろうか。権利という言葉を使い出すと面倒なのでそれはやめておく。

ただ、多くの価値観や信条がある中で、他人を不快にしないという価値を見るあまりその、その人たちの正しさに従うことは、無意識のうちの自己否定でもあるし、他の同じ感覚を持った人たちの抱くものを否定することに加担することなのかなとも思う。

だからそれを理由に髭を剃ることを一旦やめてみた。それが第1の理由だろう。

 

文化や時代によってもかなり違うよね。髪や髭を伸ばすことに価値のある文化もあれば、剃るも伸ばすもその許容範囲が広い文化もある。ムダ毛に至っては捉え方は様々だ。

どちらもファッションの側面もあるから、その整え方やそれそのものに対する価値の流行り廃りも早い。

 

 

僕が髭を伸ばしてる理由2つ目は、単純に人はなぜ髭を剃るのかという疑問を体験することで自分なりの理由を見つけたかった。

 

今のところはこんな感じだろう。

利点

・触り心地が良いこと。意外とくすぐったかったり痒かったりはしない

・剃る労力が要らないこと、剃らなくて良いのは肌が敏感な僕にとっては大きい

・僕をお兄ちゃんと呼んでいた売り子が僕をボスと呼ぶようになったこと。ちょっと年上に見られる

・前に伸ばした時は剃る前に部分ごとに切ったり剃ったり縛ったりして写真を撮って遊んだ。それが意外に楽しかった

 

不利な点

・食事の前に整えても食べ方にかなり気を使うこと、それでも汚れるから毎回洗う手間がある

・今は放置しているけど整えるとなると結局労力が要るだろうなぁということ

・こちらでは割と髭が長い人がいるのだけど、それでもちょっと視線が気になる

・話のネタにされる(これは人によっては利点だろう)

・洗った後乾くのに時間が掛かる

 

こういうのは人によってかなり差が出てくるんだろうと思う。

 

剃る労力や肌の敏感さ、これは僕にとって一番大きな利点。というよりも、髭を剃ることの難点、マイナス点だった。そのくせ髭が多めだから剃るの大変だしね。だからあんまりにも剃らなきゃいけない圧力が強いとふざけんなって思うのだと思う。

 

食事はまぁ慣れてくれば段々大変ではなくなってくる。でもやっぱりものによってはかなり食べにくい。

案外こういうところから料理や食器の形やお作法なんかが生まれてたりするんだろうなぁと思う。

特に西洋式のお作法というのは、こうして食べてみるとかなりお髭に優しい食べ方だと気付く。スープや麺類の食べ方とか、お肉とか。

出自はどうあれ当時のマジョリティが広めたもの、改変したものがそのまま残っているということはあるんじゃないかな。

そんな時、今言われているある作法の理由なんていうのは適当な後付けだったりしてね。マナーがどうこうとかいう胡散臭い記事が氾濫し、それが徐々に浸透していくのを見ていると更にそう思えてくるのであった。

 

視線、例えば社会的に容姿にそれなりに厳しく、髭に対しても許容範囲が狭い場所で組織に所属したりするのなら、大きな不利を背負うことになるのだろう。

僕はそういう場所にはあまり留まれないのでそれが不利にはならないけど、どう見られるか、特に清潔感という抽象的な概念で縛られる場所で生きるのが好きな人やそうしなければならない人は、剃らなければ大きな不利を背負うことになる。ということはやはり選択肢はかなり狭まるのだろうし、それが通念となるのもある意味で当然のことなのだろう。

そしてそういう場所で生きるのが好きな人は、必然的にユニフォーム好きやそれに違和感がない人が多くなるし、その逆も然るのだろうなって思った。それはきっと、同質性を基盤としたいわゆる常識や通念といったものの強化の源泉なのだろう。

 

髭を伸ばすと色々遊べるのは僕にとって大きな利点だろう。これは髭を伸ばしている3つ目の理由といってもいい。

バイキングが好きだからもう少し伸ばしてノルディックなヘルムとか被ってみたい。ヴィクトリアン紳士とか西部開拓者の物まねも面白そう。

外でコスプレしたり宴会の芸でやるわけじゃないのに何がいいのって思われるかもしれない。

これはね、多分皆すると思うけど、もし自分があの時代に生まれて何かをしていたらっていう妄想、例えばスペインの貧しい家庭に生まれて両親が早くに他界し、世を捨てようと思っていたところコンキスタドールに雇われ南米を探検していたらとかっていう、ストーリー性のある妄想をする時にビジュアルイメージがし易くなるんですね。

困難を極める航海の最中徐々に髪や髭が伸びていくっていう描写や植民地に着いて水浴び(おお、清らかな真水、なんと幸せなことだろう!)をしながら髪と髭を整え、パーティーに参加するっていう描写もし易くなる。

それで数日の休憩の後次の探索予定地である…っていうのを始めると終わらなくなるからここまで。

これはですね、想像の中で「2ヶ月髭を剃ってなかったらどんな顔なんだろう」っていう疑問から思考が介入する隙を与えないためには、そしてイメージの連続性を保って没入感を維持し、インスピレーションの勢いを失わないためには役に立つテクニック。

 

現実逃避用ライフハックとして皆さんも使っていいですよ。

 

 

まぁでも長々と書いておいて申し訳ないけど、多分さっきの3つの理由は全部後付け。

だって伸びてくるからこうなるんだもん。

 

理由があって剃らないのではなく、剃る理由が弱いから剃らないのです。多分、僕の中で他人に悪い印象を与えかねない、という髭を剃る理由は弱くなった。環境要因もそうだし、価値観の変化もそう。

面倒くさがりも相まって、最近は以前にも増して容姿にあまり関心がないというか、そもそも容姿で判断されるような相手に僕があまり関心を抱かない(ということに気づいた)、というのが恐らく最大で唯一の原因なのだと思う。

 

そうしてる内に剃らない理由が生まれてきただけの話。

だって、これまたすごく伸びていた髪は切ったもの。それは頭を洗うのに時間がかかるのと、シャンプーと水が勿体ないと思ったから。

 

我ながら現金だね!