感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

彼方への憧れ 箱 外か上か

Beyond.

例えば全てのものや現象、概念、視点、価値観にそれを越えた先があるとして、その越えるというのは多分物理的に越えるとかその線上で上や先に行くとかそういうものではなく、パラダイムの変化、一種のブレイクスルーのようなものなんだよね。

箱の中の視点で考えていても頭ではその理解から離れられないのに、どうしてもどこかで違うと感じているものとか、それをぶち破って外に出れば「なーんだ。」って思えるような。

 

例えば原題は『Jenseits von Gut und Böse』らしいけど、英訳がBeyond Good & Evil、邦訳が善悪の彼岸。確かこの本の中で、彼岸に渡るためには大きな跳躍か、もしくは橋となる人々が必要だっていうようなことが書いてあった気がする。それが不完全である世代が将来の世代にできることだと。でもそれは、人が人である限り越えようとして橋であり続けなければならないという意味にもとれると思う。

それはいいとして大きな跳躍というのは、ただ単に向こう岸に渡る跳躍を意味するのだろうか?

 

昔スターゲイトSG-1っていうSFドラマが好きだったのだけど、それに出てくるエンシェトという地球人と枝分かれした種族は生き残った少数がアセンドして物質を越えた存在となったという設定だったと思う。

跳躍というのはそれに近いのではないだろうか。物質の外側でなければ全体は見えない。人間が橋ならば、善悪とその先を見渡せなければ、本当の意味では越えられないのではないだろうか。

 

でもこれ、彼岸じゃなくてもっとストレートに彼方とか外側とかでも良い気もするな。 彼岸だとなんかこう、三途の川もそうだけど、向こう側にあるものが岸辺のように硬くて存在の確実性があり、ある程度固定された距離があるように感じてしまう。 向こう側には何かが、はっきり見えないけどそれでも焦がれるものの存在を感じ取っている程度の方が合う気がする。

 

越える。時を越えるというのもそう。時の彼方はその中、時間の内側ではない。

時間を行ったり来たりするというのは内から見た一面であって、時間という概念の外に出れば、線で進む時間の外に出れば線は線でなくなる、という意味なのかなと思う。でも線上の僕らから見れば外から自由にアクセスする存在というのは、線上に現れたり消えたり、もしくは遡っているように見える。

 

 

僕はいつもブレイクスルーを探している。

色んな箱に閉じ込められているようで、その外側に出たいと欲している。まぁ、単にミスフィットや抑圧を感じているのだろうけど。

でも実際、例えば合わないものばかりの社会通念であっても、その外側があると感じているからこそ苦しいわけです。いや、違うな。そう感じていて、でもその内側で生きなけ『ればならない』と縛られるから苦しいのか。縛っているのは自分なのにね。

夢見ることはいけないことなのだろうか?僕は本当にこの箱の中で生きなければいけないの?それならば夢ぐらい見てもいいじゃないかとも思うのだけど、こんな話をしようものなら「あいつはおかしい」とか「馬鹿なことばっかり考えてないで仕事しろ」とか、結局また縛り付けられる。僕は意思がないからね。

 

 

もう一つ苦手なことは、箱の中は争いが多いこと。

人はどうしても線を引いてこちら側、あちら側を作ってしまう。あちら側とこちら側をを認めるために、別のあちら側を作ったりもする。群れを必要とする。(僕が群衆が苦手なのは、彼らは勝手に仲間だと判断し引きずり込むか、もしくはそうではない相手には否定的なジャッジメントを無意識の内にするからだ。僕はただ関わりたくないのに。多分この先、引きずり込まれた先か否定された先に僕の恐れがある。)

 

僕は性格上どうしても、線や枠を取っ払って、皆その外側の存在になれば良いのにと思ってしまう。個人主義全開なのだけど、何か一つのまとまりになるのならその先ではないかって思う。

でも起きていることやそういった概念は必要だからあるのだろうとも思う。

 

またスターゲイトSG-1に戻るけど、さっき書いたエンシェントは一種のエネルギー体となっていて、僕らからみれば神的な能力も持っている。でも彼らは不干渉の掟を作り、厳しく守っているんだったと思う。だから同じ枝分かれ元を持つ地球の民の手助けをしたいという思いはあっても観察に徹する。それはかなり強い精神、より広い価値がなければ出来ないことだと思う。

 

争いの外、箱の外に出るというのは、ある種そういうものでもあるのかなって。争いや箱が必要なものと捉えるのなら。

 

争いといえば、争いは同じレベルでしか発生しないというフレーズを聞くことがある。

でもこれは2つの解釈が入り混じって使われているなと感じる。レベルという単語のせいだと思うのだけど。

 

一つは今さっき書いたように箱や枠の外側に完全にでること。これは何もレベルなんて言葉でなくとも、箱の外側なら上でも横でも下でも奥でも出たり入ったりでもいいと思う。多分、内側でも一度外側からすべてを眺めることが出来たのならいいのかな。これは僕にとって、理解を望む動機のようなものだ。

これはある見方では(恐らく)細菌が僕らを認識できないのに僕らが(現在は)細菌を認識できるという意味では次元的な位階が存在するのだろうけど、その上位・同位・下位は上下関係とはまた別の広がりの中に存在するのだと思う。外は内を内包するから外から内を眺めることは出来るのかな。わかんないけど。ただ、イメージ的にBeyondは内から見た外側なのだと思う。

成層圏と大気圏のような関係で、成層圏からもっと外側の大気圏に出ても同じ大気圏内。成層圏と熱圏の違いはあっても、大気圏としてはどちらも内包している。しかし成層圏から外側にでなければ成層圏がどこまで続くのかはわからず、方や熱圏は自らを含む下位の大気圏全ての境界を知っているとか。

あれ、なんか違うかな。バウムクーヘンかな。まぁいいや。

 

 

もう一つは箱、さっきの喩えだと同じ層の内側で、線のこちら側とあちら側のまま、ある意味相手側を卑下することによって自らを高い位置の存在として認めることで争いという現象そのものの発生を避けるような解釈。

これはでも、特にその箱や線の中に役割がある人にとっては大切な見え方なのだとも思う。許容、寛容もこれなのかな。

でもそれは本当に、将来的に線を取り払えるものなのだろうか?と僕は思ってしまうけれど、線は線でそれを必要としている人は沢山いるのだろうし、実際必要なのだろうから。

あ、前拾った画像があった。ちょっとまってね。

f:id:hasriq:20200715115629j:plain

これ。

僕は仏教とか釈迦とかそのうちちょっとお勉強しようと思いつつできてなくて、まだよくわからないのだけど、これはこれを書いた人から見れば正しい解釈で、必要な見え方なのだろうなと思う。(混乱したから釈迦と仏陀の違いを今調べて知った。少し賢くなった。)

でも、全然わからないままイメージで語るのだけど、釈迦の見方は前者だと僕は思うの。でもそれは、前者か後者か、言い換えればBeyondかHigher(than ...)かの解釈は、それぞれの人の認知の段階で既に決まっているのではないだろうかって。

どちらでもいいのだろうけど、より本来的に自分にとって大切なものの指針として、その自らの捉え方はコンパスになるのかなぁと今思った。

 

僕にとって個人的に大切なのは、やっぱり前者の方なのだと思う。でも後者もどこかに持っていて、ある意味で縛られていて、ある意味で縋っている。だからどこか自己投影的な嫌悪も入り混じるのだろう。

 

例えば性。男女間の認識や性的マイノリティに関する色々な争い。

人種に関すること。ポリティカルなこと。性格や価値観。

それ自体が必要ではないとは言わないけれど、でももし皆が一度その外側に出ることが出来たのなら、例え土俵を作り再び線を引くことが必要になったとしても、誰もがその先にお互いの未来を思い描くことは出来るかもしれないのになって思う。

例えば性に関することなら、一度性を越えてみればもう少し柔軟になれるのではないだろうか。考察は全体を見てからで良いだろうし、概念であれ相手であれ、そして何より自分であれ、理解に近づくということはその先にしかないと思う。

いや、それ自体が必要ない人の方が多いのかもしれないけれど…

 

 

そろそろ着地点を探さなきゃ…

なんかこう、いつも似たようなことを書いている気がするけど、例えばさ、もしできるなら、一度でいいからこの生全体を色んな外側から見てみたいなっていう邪な欲望がある。そうすればもう少しは意味を作ってこの箱の中の生活、お仕事も含めて頑張れる気がするのにな。

意味も目的も自分さえも見失った迷子にはそれが何より…

 

あ、だめだ。せっかく浮かんできたのにこんなこと考えなきゃ良かった。

 

それとさっき釈迦を思い浮かべたときに関係ないChaka Khanが出てきて、頭の中でI Feel for YouのイントロのChaka Khan連呼が止まらなくなってる。わけわかんない。

こうなったら道連れにするからね!

 


Chaka Khan - I Feel for You (Official Music Video)