自己アピールが苦手 から 係争状態
自己アピールって本当に苦手。例えばクラウドソーシングのサイトとか見てても、みんなしっかりできて凄いなぁと思う。
自己紹介は苦手だったけど、さらに苦手だったのは自分の良いところや得意なことを言わされる場面だった。これは以前書いたよね。ほんと無理。
シャイだから、引っ込み思案だから人前で喋りたくないんだろうと思われてると思うのだけど、その方がいいのかも知れない。
モジョモジョぐちゃぐちゃしててはっきり言葉にするのが難しいのだけど、正直に言えば自己アピールっていう行為に対して感じてしまうのは賤しさなんだと思う。
そう感じてしまう自分を意識するとその賤しさに自己嫌悪ループが始まりそうだけど。
何で賤しいって感じるんだろう。でもアピールが上手い人の中に虚偽を見たことも多かったし、アピール下手な人にアピールされない特別なものを見たこともあった。でもそれは人々には評価されないということも学んだ。
それじゃあもういっそそんなアピールならいらないじゃんって思う。
実際何の意味があるの?その人を評価する判断に使う?使えないでしょ。僕のような人間を篩にかけるというなら納得できてしまうな。
嫌悪が先に来るからその理由はいつも後付けなんだけどね。実際にその時それを思って嫌悪してたのかなんて分かんない。
アピール合戦を見ていてももうなんかそこに居たくなくなってしまう。
仕事の提案だって結局のところ同じ。提案合戦。提案が重要な仕事って、提案に一番力を入れるし、どれだけそれに近く見せられるかで評価を受けようとするし、その動機が次の提案のためだし、そうなればお金中心にくる。僕はその逆がいい。
そうやって世界が動いてるとしても嫌悪は嫌悪だよ。
釈明させてもらえば自己アピールをしっかりできる人達を賤しいと思うわけでもない(と思いたいのかな)。現代では世界がそう回ってることも理解しているつもりで認めてはいる(その努力はしてる)。
いやね、他人は他人だし、向き不向きがあるじゃないですか。その人達のやるべきことはその人達のやるべきことで、それに向かって邁進するのってすごいことだと思う。ただ同時に邁進という時の邁進が社会的でなくてもいいと思っていて、社会の流れの中では立ち止まっている人や後退していると感じている人もそれはそれで邁進といってもいいと思うし、恐らく必要があってそうしているのだろから、それも凄いなぁと思う。
釈明ついでに更に釈明させて頂けば、基本的にこのブログのスタンスとして思った時に思ったことをそのまま書くから、時折攻撃的だったりする。でもそれを僕が(この僕が)躊躇しない理由は8割方自分に対して言ってるからなんですよ。傷つけちゃったらごめんなさいとは謝るけど、取り消さないのは、他の人に対して言っているという意識はあまりないから。それでも誰かの気に障ってしまったら謝るしかないじゃないですか。って言うと嫌々謝っているように聞こえてしまうけど、コミュニケーションって基本的に不本意なものだと思っているからかな。何もかも難しい。
だから別にアピールがしっかりできる人を賤しいと思ってるわけじゃないよ!という釈明でした。
僕がそれを賤しいと感じるのは、結局僕は僕を通して物事を見ているからで、僕がそれをすると賤しいということなんだと思う。その言い方をすると今度は僕が自身を高貴だと思っているみたいになるけど、そういうわけじゃないの。飽くまで感覚の問題であって、言葉は後付けだから…
例えば自己嫌悪スイッチが入ると僕は自分の存在が凄く傲慢で賤しいと感じる無限ループが始まるのだけど、それは僕を通して見ている対象の僕が(も)僕であって、その僕は傲慢で賤しい性質を持っているからで、それは多分そう在るべきではないと思っているレイヤーの内側に居る僕が捉えて、賤しい側の僕(レイヤーの外側)が思考しているからなのかなと思う。大ざっぱに言えば。
それってモラル・信条的なものは感情が捉え、思考がそれを否定するというものだと思う。MBTI界隈の言葉を借りるならFi-Te conflictっていうものだろう。
成長過程で僕は感情面をかなり縛って生きてきたのだけど、この場を作った理由は後から考えればそれに限界が来たから。Dark Night of the Soulというものを当て嵌めて考えれば、下剋上成就の為のプロセスなのかなとも思う。それは言い換えればそのまま転換期であって、年齢的にもそういう風になる時期なのかなぁとも思う。
一連のプロセス、宗教的にはEgo Deathという概念に繋がるようだ。それを以って終わると書いている人もいる。自我の死というのは日本語で調べても結構出てくる。それは凄く意味として通る。意味としては。
別のグループではMoral injuryとも言われてるけど、こっちは解釈が目に見えてぐちゃぐちゃになってる。他の概念もぐちゃぐちゃ感はあるけれど、これはさらに酷い。それだけ精神的なことを物質的に表そうとするのは難しいということだと思う。見え方が違うから実質見てるものも違ってしまうし、そうこうしているうちに混同も相まってしまうからかな。読み比べてると理性の限界を感じる。
このプロセスって見方によってはある心理機能が力を増し統率力を得るということだし、見方によっては二つの自己が和解することであるし、見方によっては本来的な自分への気づきと回帰であるし、見方によっては古い自我の死(これはカトリック系やその派生に多い印象だけどなんか僕には合わない気がする)だし、モラルや信条と人格のコアである魂が似た意味を持つものであるなら生まれ変わりという捉え方の人も理解できる。
この転換期がなぜ僕の場合長く続いているのかというのも、多分自分の中ではうっすら答えは見えてる。それなりにハッキリしている気もするけど、角度を変えるとまだうっすら。
なぜ辛いのかというのもわかる。
価値観、信条という面ではより本来的な(と感じる)僕で知覚するように変わった(それが許されるようになった)けど、その僕が相対的に弱いというか、統率する気があるのか無いのか分からない状態なこと、そしてずっと力を持ってきた理屈屋の僕が頑固だから仲良くできない。いや、見方によっては互いに頑固だし、それ以外も頑固なんだけど、主要なのはこの2つのぶつかり合いだと思う。
統合という言葉が今の僕に響くのは、統合していないという意識があるかあらだと思うの。僕の場合は統率ぐらいでいいと思うけど。仲良くして欲しい。って書いてる傍から反対意見が飛び交ってるけど…
結局僕は僕を作り出して内側でシミュレートすることで世界を見ていて、だからここに書くことは社会的なことを書いても個人的なことに集約されるのです。また言い訳に戻ってる。
これまでも変化の連続だったことを見れば、これからも変化するのだろうし、気づけば落ち着いているということも起きるのかな。ただ現状迷子は迷子。早く抜け出さないと何も手に付かない。何より僕の場合それを言い訳に使いだして何もしない為に一生迷子であることを選びそうで怖い。
でもさあ、なんで何かをしなきゃいけないの?本当に僕がするべきことなら、自然とするようになると思うのだけど。また言い訳か、見苦しいぞ。
いや、そうじゃなくてね、これは両方とも本心だ。ポイントはそこ。だから辛いの。
また言い訳?あ、やばいスイッチ入りそう。今日はここまで!閉廷!
極端から極端への飛躍。その繰り返し。多重人格ではないよ。
そうそう、一つ付け足したいの。例えばこれが一つの自然な内的プロセスだとしてね、僕は慣れてるから何とかなっているけど、急な鬱や失意や意味の分からない無気力、絶望感、孤独感で自分がおかしいと思ってしまってメンタルクリニックに行ったとするじゃない?それで薬漬けになってしまったら、余計出口が見えなくなってしまわないかなって。日本の宗教観、精神病観から見ると当たり前に起こっていて不思議ではない。土壌は固まっている。
でも僕は、それはその人達にとって、仮に苦しみが紛れるなら必要なものだと捉えたいし、だから自殺も否定できないの。生きて欲しいと個人的に思っても、それはその人に委ねるしかないしね。でもそれは言い換えれば生きて欲しいと伝えることで、その人が苦しむことが怖いのかなとも思う。そう考えるといかに傲慢だろうか。
あれ、またおかしい。やっぱり閉廷!