感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

感情 成長 蛹

落ち着いているとよく言われる。外から見るとそう見えるというだけで、内側は荒れ狂ってる上にドロドロのヘドロなのだけど。

 

感情を外に出すのに困難がある分、それができる人を羨ましく思ってしまうこともある。例えその人がそれ故に困難を持っているとしても、僕には分からない別の困難なわけで。

無い物ねだりの末路なのだろうか。

 

感情が出せる人は出すことを恥じるのではなく、出せることを感謝しながら出し方を工夫するのがいいのではないかと思う。ある程度のコントロールは必要だろうけど、出さないようにと我慢ばかりするのは自分の良さを否定することになるかもしれない。

その感情はきっと、意味のある美しいものだから。

 

他人の感情を巻き込まない、その人本来の感情のアウトプットは美しいものだと思う。そこに深浅・強弱はあっても、ポジティブ、ネガティブの区別はない。

言葉、表現、表情、仕草、行動。全てがその人の、その瞬間瞬間の生きている姿であり、固有の感じ方を反映された、否定されようのない固有の存在そのものの姿なのだから。儚く、美しく、生きる力に溢れている。

感情、それこそが、人という存在に僕が見出せる自然な美しさだと思う。色であり輝き。

どんな感情とある人も、その人なりの成長を続けていくのだろう。

子供と同じで否定するのは違う。自分の色を捨ててしまえば、輝きも失ってしまう。

 

 

僕にとってはアウトプットは非常に難しい。気質なのか、後天的なものなのか、多分両方だろう。見せている笑顔の内側で、別の笑顔をしている。別の表情をしているかもしれない。落ち着いていると言われるのは、そのワンクッションのせいだろう。

 

感情を外に出さないからといって感情がないわけでも、感情に振り回されないわけでもない。寧ろ外に出せない分複雑に絡み合って自分の内側が訳のわからないことになる上、気付けばいつもドツボの中で冷たい荒波に揉まれているわけで、とても辛いのです。

その上自己主張が出来ない為に押し込めて押し込めて消化不良の連続。

 

内側の僕は常に悲鳴をあげ助けを求めていても、外側の僕にその声が届くことはない。そういう意味では外側は確かに機械的なのかなぁとも思う。不健康極まりない。早めにどうにかしないと早死にするかもなぁと思っている。

 

現実が何をもって現実なのかはさておき一般的な意味での現実で僕を知る人からは、現実逃避ばかりしていると思われているだろう。

でもね、僕は先ずこの内面が落ち着いてくれないと何も手につかないの。感情に煽られて思考はトリップしっぱなしになる。

色んな語やイメージがインプットされる度に連想される沢山の語やイメージ達も、メンタルのムードによって大きく変わってくる。同じものを見聞きした感想がその時によって変わる。どれが自分にとって正しいのかわからなくなる。

どれも事実であって正否はないのだろうけど、どのみち生産性のない方向に突っ走る。(生産性って言葉が嫌いだけど今は置いておく)

 

だからインナーピースは一生の課題であると共に、皆さんと同じスタートラインに立つためにも必要なのだと思う。

 

水面が落ち着いてくれれば集中もできるし、恐らく他の人にとって必要なサポートが出来るかもしれない。人々が気づかない情景を伝えることもできるだろう。

 

でも、それにはまだまだ時間が必要なのだろうと思う。

内面の成長は止まっていない。寧ろここ数年はかなり良い方に変わっていると思う。

ただ、それが周りに求められる成長とは違うだけで…

 

これも前回の森の中で書いた。

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こういった落ち着いた環境、自分に合った環境に身を置いていると、その成長を認めてあげてもいいのかなという気にもなる。

それ自体が好転であるし、自分の在り方に気付いてきたのも成長のひとつだろう。

 

迷子のようでも、みんなしっかり進んでいるのだと思う。ただその全てが認められる世の中ではないだけで。

周りに騙されず、流されず、生きていくのは難しいけど、そうするしかない。

もし悩んでいる自分が認められることがなくても、ただ気づかれないだけで、認めてくれる人はいる。それは人でなくてもいいのかもしれない。

 

僕の場合、今のように自然の中に居れば自分の存在が確かなものになる。人の世に自分を見失っても、自然の中に在る限りは自分はその一部なのだから。苦悩も苦痛も変化も喜びも、あるがままの事実として自分自身によって認めることが出来る。

常にコントロールに身を置いてる分、動物的な感覚が重要なのかもしれない。

 

そうすることで感情も静寂を取り戻すし、思考も安定する。静寂の中に在る感情は、よりはっきりと意思や方向性を持ったもの。すっきりしたものなので、強いものでも受け入れることが出来るし、微かなものでも捉えることが出来る。

その微かなものというのは、普段僕が無意識のうちに翻弄されるものであったりするので、捉えられれば関係は一転する。

より自分らしくいられる。

 

でもずっと自然の中に身を置くことは出来ない。そこが難しい。

 

内面がどろどろでぐちゃぐちゃなのは、いつか越えられるのだろうか。

内面がどろどろと言えば、虫たちは変態の最中、蛹の中の中身がどろどろらしい。昔分解したような記憶もあるけど。

 

まだまだ蛹だと思おうかな。今の自分も自分だけれど、その先に成る自分を夢見るのも悪いことではないのかもしれない。

殻・コントロール、その防御がいらなくなる自分。アウトプットを意識しないでも自分としてアウトプットになるくらい。死ぬまでには。

 

 

虫ならカゲロウがいいかな。

儚い一瞬の生殖のために水面を揺らめいて死んでいく。常に死と隣り合わせの水面で、一瞬の出逢いに賭ける情熱がとても美しく力強い。

本人たちはこんな例え方されてたまったもんじゃないだろうな。

 

 

*追記

ふとカゲロウは蛹にならないことを思い出した。ふわふわ飛ぶのがいいから蛾にしようかな。