感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

大人の自分、子どもの自分と自己矛盾 外と内

僕の内側で苦しんでいるのはやはり子どもなのかも知れない。

子どもという存在への憧れは自分の経験を投影しているからだろうか。それともその感覚が残っているからだろうか。

 

大人になることは結局、僕の内側が自己矛盾製造機になることだった。

色んなバイアスを汲み取りながら、自分の中のバイアスと世間一般のバイアスを向こうに合うように擦り合せる作業。話し相手の感じる世界を汲み、自分を騙し言葉を濁す作業。

 

それらの作業が僕が大人であるためには必要となる。

 

その在り方を正当化する外側の大人の自分。素直な自分自身として存在できない理由が理解できず泣き叫ぶ内側の子どもの自分。

自己矛盾に次ぐ自己矛盾が繰り返され、荒れ狂う冬のベーリング海のように安らぎがない。

 

でもそれは大人になってからだった。だから子供に憧れるのだろう。子供だった瞬間は経験上唯一の自己一致の世界だった。

自分として感じ、自分として思い、自分として考え、自分として語り、自分として行動する、自分自身という存在だった。

楽しみも悲しみも怒りも、全てが自分自身だった。自分という存在に迷うことがなかった。

 

世界は広く、明るく見えた。みんなが優しく、楽しく感じた。分からないことが沢山だった。

美化されている記憶かもしれないけど、自己一致という部分は間違いないだろう。

 

その過去の自分、子供の感覚は成長と共に追いやられる。認められてはならないから。でも恐らく、彼はまだ生きている。抑えていた行き場のない感情は日に日に高まっていく。ここ数年で物事の感じ方や捉え方にもかなり彼が踏み込んでくるようになってきた。それは歓迎すべきなのだろう。

でもそれは、大きな社会と関われば関わるほど苦しみを生む。彼自身は矛盾を感じないが、彼は彼なりに苦しみ、怒る。とても強く。寂しがり屋で愛に飢え、そして良くも悪くもわがまま。動物的。

 

その感情の波が外側の自分に影響し、また自己矛盾が始まる。

どうしたら仲良くしてくれるのだろう。

 

僕は外側の自分が内側の自分と相容れないから閉じ込めているのだと思っていた。でも違うのかもしれない。

素直な自分を出せる場は少ないが、そんな時は外側の自分は静観している。内側の自分に存在を委ねるように。

 

外側の大人の自分は内側の子どもの自分を守っている。でも内側の自分はそれを理解できない。だから苦しむ。

自己矛盾のループや自己否定を断つのならばこの2つの自分の関係を変えるしかないだろう。外側は世間と接する限り、内側は自分自身として在るために必要な自分。

どちらの自分も性質が違いすぎて調和は難しい。

 

でも本当に自分自身が望んでいるのは、内側の自分が中心に戻ることなのかもしれない。だから衝動に突き動かされて行動する動物に崇高さを感じるし、行き場のない感情や気持ち、言葉を吐き出すためにこの場が必要になったのだろう。

 

内なる動物は動物を求め、内なる子どもは子どもを求める。

自己矛盾の先の共感を感じる時、自己矛盾自体も悪いものではない気もする。

素直な自分を認め合える人、自己矛盾をブログに書く人たち、好きな歌、心で理解できる文章や詩、絵。自己矛盾に苦しむからこそ、内側に動物や子どもが存在するからこそ感じられる共感。そんな人たちの優しさと苦しみの入り混じる深い光に触れる度、自己矛盾は僕の求める優しい世界のために、本当のヒューマニティのためには必要なのかも知れないと感じる。

 

それが認められないから優しい彼らが消え、優しさが減り、大人ばかりが増えてしまう。バイアスばかりの辛い世界。

でもそこに生きるしかない。

 

せめて自己矛盾を肯定し、自己否定を捨てられれば楽になるだろうか。それが難しいのだけど…