感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

ヒトラー

ユダヤ人迫害についてアドルフ・ヒトラーばかりが死んだ後も責任の名のもとに死体に石を投げつけられ続けているけれど、それってどうなのだろうか。

戦争に大義を持ち出すのなら、その大義によって行為を正当化するのなら、民族浄化こそ大義がなければ実行に移すことは出来ないだろう。

ドイツ民族としての大義の実行だとするなら、ヒトラーはその先頭に立つべくして立つ才覚を持った人材であっただけで、それは集団の意向として実行に移されたと考えるのなら、果たして誰の責任なのだろうか。

 

ナチがスケープゴートなのはわかるけど、そうじゃなくて、何故スケープゴートが必要なのか。そしてなぜスケープゴートと分かっているのに見直すことが許されないのか。

それはユダヤ人の力ということだけでは説明がつかない。本当に多くの人々がそこに甘んじているからではないだろうか。

 

集団となった人々に幻想ばかり持たせようとする。いや、彼らは持とうとする。

ベトナム戦争では反戦運動の成果を一面だけ見て持ち上げ、イラク、アフガンでも同じことを繰り返す。繰り返しを避けられない後出しじゃんけんの反戦運動が成果なのだろうか。民主主義の悪い癖だと思う。それを自浄作用で片づけるのは趣味が悪い。

 

アラブの春は忘れられかけられているけれど、群衆化する人々と感情によって先走る情報(それがマスメディアかソーシャルメディアか、その性質を問わず)というものは本当に相性が悪い(ある意味本当に相性が良いのだろうが)と思う。その相手が人間でないだけで、集団が1つでないだけで、今も同じものを見ている。

 

それは置いといて、いかに大義が行為を正当化しようと、ヒトラーという人が個人的に背負ったものは計り知れないくらい大きかったと思う。

Youtubeのおすすめに出てきた動画で、ヒトラーのメイドだった女性のインタビューがあった。とても悪意のある、言い換えれば善意で塗り固められたドキュメンタリーで、結論ありきのものだった。飛ばし飛ばしにしか見てないので、詳しい内容は控える。

その動画のコメント欄でドイツ語話者が、彼女の言葉が正しく訳されていないことを残念がっていた。He was crazy(だったかな?)と訳されていた部分が、正しくはHe was clownと言っているとのことだった。訳文ではこの程度の差異はよくあることとはいえ、この二つの意味はかなり違う。

 

Clownはどうして必要になるのだろう。それは集団の中でしか存在しない1つのペルソナのようなものだ。それを生んだのは誰なのだろうか。

倫理を振りかざし、責任を押し付ける者はそれ以上のことはしない。それはその言動にこそ目的があるからだろう。しかしClownはClownという存在として既に集団の中での責任を全うしているものだと僕は思う。さらに彼は己の、集団のための大義の中に殉じた。ソクラテスやイエスと何が違うのか。行為というのなら、それは役割の違いだと思う。ただそれだけ。

 

ヒトラーがそれだけの深みを持った人間だということは、著書からも溢れ出ているし、なにより最期まで添い遂げたエヴァの存在が物語っているだろう。あまりに悲愴に満ちているけれど、2人が一緒に逝けたのは救いだったのかな。

 

なぜ祖国の為に、集団として意思を共にし、殉じた指導者が石を投げ続けられるのだろう。そこまで含めてClownと言ったのだろうか。

ヒトラーを絶対悪とする人は倫理を武器にするが、であるならば個人や一部に負わせるものではない。後から裁くものでもない。所詮他人事の理屈であって、だから何も変わらない。外向きの感情の一種の作用がそうさせるのだと思う。であるなら、変わる筈がない。

悪に石を投げるのが善なのか。その基準が集団の中に見え隠れするとき、同じことは繰り返される。常に、いたる所で繰り返されている。善悪なんて捨ててしまえばいいのに。でもその彼岸は人間が群れの動物である以上遠すぎる。