感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

『自粛』から

自粛自粛ってことあるごとに引っかかるのだけど、自粛って自ら主体的に、自主的に行動に制限をかけたりすることではないのだろうか。

それは強制される類のものではないし、要請されてするというのも言葉の意味から考えると微妙なところだと思う。

「自粛の要請」って凄くお役所的な言葉だと感じる。制限をかければ補償の問題にもなるし、「外出するな」とは言っていないという点で便利なのだろう。でも自粛と言えば、社会的に通じるある種の意味がある。

 

単語だけの自粛をみれば、自粛には明確な基準がないから、普段10kmジョギングするのを5kmにするのも自粛だと思うけど、通念的な意味になるとそれは自粛ではないとなる。

 

自粛を要請するというのは、個々や各組織に判断を委ねるという丸投げと何もしていない又は過剰であるという批判をかわす意図と、自粛しましょう!の精神への期待が込められている。

利用する側にとっては、「欲しがりません 勝つまでは」の頃から、使い方が染みついているものだ。

 

さぁ一緒に自粛しましょう!からあいつは自粛していない、吊るせ!になるのはいつものことだ。

 

いつもと同じ流れになりそうだから少し軌道修正します。

 

自粛要請と聞いて先ず頭に浮かんだのは「軽挙妄動は慎むように」だった。

慎むことの強要。

では慎むとはなんだろうか?軽挙妄動とはなんだろう?それは考えてはいけないようだ。その言葉に求められるのは、「余計なことをするな」「黙って従え」であって、それが彼らの要求。

それは彼らにとって、慎むというものも、軽挙妄動というものも、幅がないものだから。訓練的に導入されたその言葉がぴっちりとその意味になる。もはや別のものを意味するイディオムのようなものだ。

 

もう一つ挙げれば、学校でよく聞いたのが「しっかり考えて行動しなさい」。

僕が思うのは、それを言われている子にも数種類いて、ある種の子はしっかり考えて行動しているのに同じことを言われてしまう。それを見越してより反発的な行動を『考えて』選ぶ子もいる。

では考えるとは何だろう?

 

「しっかり考えて行動しなさい」を言う側の「考えろ」は、言い換えれば『考えるな』だ。皆と同じようにできるようになりなさいという戒めであって、それが彼らの中の偏狭な「考える」の意味になる。だから「人の気持ちを考えろ」という暴虐なことを言い出す。

でも彼らを擁護しておくと、そんな気などないのだ。それは、彼らにとっての人の気持ちというのは推察して断定できる、その程度のものだから。人の気持ちというものに、既にモデルがあるのだろう。それはやはり『考えるな』、『通説通りやれ』と言い替えられる。

思考停止と言われるものがこれなのだろうか。互いが互いの思う思考に照らし合わせて思考停止だって思うから、互いに言い合う。コメディみたい。

 

自粛というものも同じで、彼らには自粛というモデルがある(徐々に出来上がって来た)のだろう。でもそれは、人によっては自粛を意味しないものになる。

 

集団を基調とするために主語が損なわれる日本語として、それらの言葉は多くの場合、通念的なモデルを共有している。そのモデルの習得(置き換え)がある種、社会的マナーとして語られているのだと思う。

それを当たり前とすることで、その常識は集団が構成員を一部として認める基準になる。だから反吐が出てしまう。言葉や行動は同質性の担保に必要なものであって同調圧力の根幹なのだろう。

 

もっと具体的に分かり易く言えばいいにと思うのだけど、それは避ける。役人側が意図的に避けるのは分かるけど、集団はなぜそうするのだろう?

「分かれよ!」って態度。だから僕は「は?わかんねぇよ!」って分かってても言いたくなる。言わないけど。

 

その辺りは子供から大人までどこにでもある不和。多分、優位な心理機能の違いとか、結構根本的な違いの問題。これはどんな立場の人であれもう少し深く考える必要があると思う。

「分かれよ!」の態度、「身につけろ」の態度は色んな社会や集団で維持されるものだけど、絶対に解決にはつながらないものだと思う。だって分かんないし、分かっていても分かりたくもないし、分かっちゃいけないし、そんな意味のわかんないものを身につけろとかふざけんなって思うもん。

 

彼らが何か彼らにとって大事なもののためにそれを使う時、僕にとって大事なものが蔑にされるんだよね。やっぱりそう思うかぁ。うーん。