殴られて分かる事っていうのは、それをやったら(またはバレたら)殴られることであって、どうして殴られたかについて考えることには繋がらないし、行動が間違いであったとしてもその行動がよろしくなかったんだなぁとはならないんだよね。理不尽さについては学ぶのかな。
だからって体罰において「理不尽さを思い知らせてやったんだ」なんて言ったら本末転倒だけど、感情的に怒る側っていうのはそれさえ言いかねない。
もう一つ殴られて学ぶことといったら、自分がこういう立場、こういう状況になれば殴ってもいいんだってことだろう。
連鎖。血は争えないと言うけれど、それは血じゃなくて記憶だと思う。
ただその辺は子供の性質によっても大きく変わると思う。一つの要素。
僕が体罰を肯定するとしたらどんな状況だろうか。思考させないこと?立場を思い知らせる?逆転されることを考えれば無理だろうな。陶酔的にさ、自分が加虐を、相手が被虐を求めるならいいかな。でもそれってなんか別のプレイなんだよなぁ。僕が内面でやってるやつ。
体罰をする人がSなのかと言えば、そうでもないんだろうな。そういう人はそもそも、自らの嗜好を認識していない人が多いと思う。
体罰。
「これは理性的な体罰だ」という態度をいかにとったところで、理性的に体罰を行っている人を見たことがあるだろうか。主観的な理性なんていくらだって無意識に操作されるものだ。
あ、一度あった。小学校3,4年の時の先生。作文がどうしても書けなかった子3人(僕含む)が前に立たされ、順番にお尻をはたかれた。でももの凄く加減されてたし、ポーズだけっていう姿勢が滲み出てた。ニュートラルな状態で体罰を加えるというのは難しいことなのだろう。それは人間の明るい面だと思う。
良い先生だった。でもこういう羞恥の記憶ってはっきり残るものだなー。
作文、文章が書けないわけじゃないんだけど、誰かに見られるって分かってて書かなきゃいけないってすごい難度だった。文集にまでなるんだもん。同じく書けなかった女の子もそうだったんだと思う。もう一人は違うかな。分かんないけど。
怒りの感情というのも暴力と同じぐらいの強度を持つものだった。僕はそっちの方が暴力よりも苦手だったかもしれない。殴られるのは嫌だけど、殴られれば終わるから。イライライライラずっとされてると、いつ来るんだろうで神経が磨り減る。ブスブス、ジュクジュク。
殴る側は「お前が悪い」って気持ちを込める。それを言葉にも出す。それって植え付けられるものでさ、少なくともその中に居る間はね。僕の自己否定は元々あったものが増幅されたのか、それとも単に後から植え付けられたのか。そんなのは分かんないんだけど、自分が悪いというのは辛いけど都合のいいものだとは感じていたな。
彼らも機嫌がいい時は別人でさ。両方の顔を見ているとどうしても恨めなくなるし、なら怒らせる方が悪いって思いこんだ方が楽。意識は本当に都合がいい。
人間の致命的なバグだと思うね。少なくともこの時代には即してないからパッチ当てるべき。ストックホルム症候群っていうと物々しい感じがするけど、軽度のものは本人も気づかないだけで結構普通にあるものだと思う。嫌だな。
あ、僕は親に暴力はあんまり受けてないよ。これは高校の話。DVは見て育ったけどね。
家庭内暴力や虐待を受ける側は似たストレスがあると思う。
体罰、まぁ僕の場合は自分に向けている面もあるから、余計に外に出さないように気を付けなければならないのかもしれない。
罪悪感、自罰、自己嫌悪、自己否定、そして自己矛盾。数珠つなぎのこれって本当に複雑で、解こうと思うと更に絡まる釣り糸のような感じ。
でもまぁ、これって世間が言う程悪いものではないと思う。少なくとも僕はその明るい面を見ているし、それを強く持っている人達が持つ柔らかさには助けられてきた。
それにさ、例えば自己否定感情を強く持った人が、自己否定感を捨て自己肯定感を持つ自分を想像したとき、その自分を受け容れられるだろうか。
僕の場合、やはりどこかしらで何らかの内的なモラルが自己を否定する(ことを定めている)ようで、やっぱりそんなモンスターは受け入れられないな。
この部分はそれなりにしっかりした自己評価だと思う。ほら、そういう所は肯定できる。だって鏡に映るのは事実だからね。
だからこそ僕はそういう人には背中を向けることができるわけです。カラクリ。
ただ、自己否定を否定する空気に曝されて、自己否定を抱く自分はおかしいという、その余計な終わらない多重否定には気を付けた方がいいと思う。偏見に根差したそれを主体的なモラルが受け入れる義理はないし、その集団が放つ毒を受け入れれば殺されるかもしれない。
また集団かぁ。ここまでくるとヘイトもいいとこだなー。集団に親でも殺されたのかな。でも集団ならやりかねない。まぁ…この凝り固まった実感を崩せるほど僕は群れを愛せないだろうな。