感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

感ずる、思う

理性主義的な物事の見え方の人と非理性主義的な物事の見え方の人って、結局気質による捉え方の順序が違うだけなのだろうなと思う。

 

言葉の通り理性主義が理性的なのかと言えば、それを追及したところで逆側の人から見ればその根底に非理性が見えるから理性的とは言えないし、非理性主義的な人がいかに非理性をうたっても、理性がそうさせている以上その理性という土台からは逃げられない。

その部分は誰もが考えるのだろうけど、追求するとなると「そういうものだ」で終わらせるわけにもいかなかったのだろうか。

 

考えるから自分が存在するのか、感じるから自分が存在するのか、その違いはかなり大きなものだ。少なくとも、大まかに同じ性質を持った人間達が認識を求めてここで二分される。例外はあれ、僕は実存とかそっちの人の言葉は凄くすんなり入ってくるから、その分け方をするなら非理性側なのだろう。Rationalの大切さは分かるけど、そのRationalはRationalじゃないじゃないかって思うことがよくある。大切さを説くのに否定するから、否定し返したくなるというのもあるのだろう。実際は両面をみんな持っているのに、どんな場でも色んな過程を通して同じようなチーム分けに罵り合いになる。ある意味神秘的であり原始的(褒め言葉)。

 

心理的な順序の問題で二分される意味はないし、互いが否定しあうために主義の中に埋もれるのも建設的ではないと僕が思うのは、僕が多様性の価値観の時代に生まれたからなのだろうか。

 

一般論として、分かれて競争するから、主義があるから発展したという反論が(僕の中から)あるけれど、その競争原理自体がまやかしではないかとも思ってる。

まやかしというのはつまり、ある人にとって事実であっても僕の中では経験的に事実ではないのだ。しかし他のある人にとっては経験的な事実なのだろうし、僕自身の経験も僕自身が作ったまやかしの上にあって別の経験で崩れるかもしれない。

何が言いたいの?分かりません。

 

なんかこう、最近前にも増して酷いのだけど、答えを出そうとすると色んな疑念が色んな内的な人格から発せられるようで、結局「どれも答えだね」で終わるしかなくなる。もしくは棚上げ。君たちは正しいよ。じゃあ僕は一体なんなんでしょう?僕としての意見はどれなんでしょう?

 

頭おかしくなりそう。

そういうこと思うと「もうおかしいだろ」って野次入れるのもいる。

 

僕は思えば思うほど我の存在が不確かになるよ。デカルトさんとお友達になってたらストレス溜まっただろうな。

 

ふとしたことで秩序(なんてないようなものだけど)が崩壊して人格が破綻したら、精神病棟で目が醒めるっていうお決まりのパターンになりそうでちょっとワクワクしてしまう。

 

このブログのタイトル、語感は悪いけど一応「感じる」と「思う」の順序は僕にとって大事なのでこれにした。考えるが主題から漏れてるのもそのため。

知覚の順序的にはその通りでも、人間は感じる前に予測している合理的な生き物だし、感じる(主観的に)前に記憶と照合もして調整しているから、思ってから感じているといっても間違いではないし、その傾向が強い人は多い。また上の「性格が」の問題に戻りそう。まぁいいや。

 

そんなこんなだけど、僕は極限まで白くしてから感じて、それでもって思いたいっていうことでして…更に言えば思うまでもないという領域を求めたいのだけれど。僕にとってはウェイトの問題であり、蔑ろにしてきた感覚達の復権運動なのです。

 

僕はどちらかと言えば(というか極端に)感ずる故に我ありの方だからね。

 

実感の中では確かに僕は僕だし、頭の中が数々のブードゥーの儀式の結果のような状態(今みたいな)になることもないのです。

 

要するに何が言いたいのかと言えば、

みんな仲良くできたらいいのにね♡ってこと!おやすみ!