感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

昨日の続き 見え方

陰鬱とした内側から外側を見るから陰鬱に感じるのか

陰鬱とした外側には陰鬱な要素があるのか

陰鬱とした外側を見たいから内側が陰鬱となるのか

 

まぁ昨日のはサティさんの見え方もあるかもしれないけど、でもそのBGMが柔らかく溶け込むのは、丁度似たような感覚だったとも言えるだろう。

 

明る過ぎる見え方の人たちの中にいれば陰鬱な見え方は強調されるとも言える。僕の見え方がたとえニュートラルだとしても相対的には暗くなるから。

朱に交わって赤く染まれれば苦労しないよ。ピンクぐらいにはなるのだろうけど、それが頭にくるから無理矢理緑に持っていこうとするんだろうな。極端な反射的反応。

 

そういう前提に立つなら、結局皆それぞれ別のものを見ている。それが僕の合理主義への反発の根源。

でもそれは、言い換えれば理性の発展を望んでいるからなのかもしれない。

理性の純度を高めるならば、その中の非理性を非理性として認識して摘まなければならない。

でも僕の場合、そうこうしている内に理性など見えなくなってしまう。気づけばほとんど全部摘み取ってしまうから。

 

そこまではいい。

ある他者が、僕が自ら内面で摘み取ったものと同じものを掲げ、理性的だという振る舞いを見せた時、否定感情に襲われる。摘むのだから持っているし、ある意味で投影だろう。

理性への冒涜だと感じるし、時に見下しているのかもしれない。日頃理性に反発しておいてその態度は笑えるでしょ。

 

その他者の擁護をすれば、それはその人の持つ世界の摂理では摘む対象ではないのかもしれないし、僕にはそれを見る術がないのに。

 

でも一つ言えるのは、本当に僕が理性的だと感じるもの、人、考え方、理屈、それらには、傲慢さや排他的な空気は感じないことだろう。

そしてそれは、感情的なものとうまく溶け合うものでもある。でも僕にはそれを見つけるのは難しい。だから全て摘んでしまう。

 

それはともかく、誤解されないように書いておけば別に僕は全てが陰鬱に見えてるわけでもない。ただ、この環境に居るとどうしてもそればかりが僕を包み込んでしまうし、強調される。時計、日付さえも僕を雁字搦めにしようとするし、その共有された時間の流れは、この街という環境の中の全てのものを支配している。その中の自分はさながらケージの中の毛の抜けたネズミでありまして…

そして川や山、海や森に居れば、自然に包まれていれば、その時間の流れを感じていれば、そんな陰鬱としたものの見えかたとは一切無縁になる。寧ろそっちの自分があるべきあり方なのだろうと7年森で暮らして思った次第。

環境要因で慢性的に見え方がそうなる、ということであれば、まぁ合っていないのだろうね。

 

であるなら、

陰鬱とした内側から外側を見るから陰鬱に感じるのか

陰鬱とした外側には陰鬱な要素があるから内側が陰鬱になるのか

陰鬱とした外側を見たいから内側が陰鬱となるのか

 

どれなのだろう。どうしたら理性的に解釈できるだろうか。

端から僕には出来ないとはわかってるけどね。だって順番の問題だから。