感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

捉え方の基盤 他の基盤を認めること 伝えることの難しさ

夢や幻覚の扱いを見るとその社会が如何に物質的かが分かる気がする。

 

僕の中にも夢は飽くまでも夢であり、内容に意味はなく単なる記憶の処理だという基盤があるし、幻覚に至っては幻覚を幻覚と捉えている時点それら個々の感覚に不寛容とも言える。

 

基盤が物質的な科学なのだからそうなって当然なのだけど。そんな人間が基盤が別のものである人たちの感覚がわかるのだろうか?

結局譲歩して理解した顔をし、彼らの見え方を尊重しているふりをしながらしているのはジャッジメントではないだろうか。上に立ったつもりになっていないだろうか。それにどんな正当性があるのだろう。

 

実際何が答えか分からないものを科学という一つの視点で一部を説明したからといって、間違えだと証明のしようもないものを単なる幻覚だと決めつけてかかるのはやはり偏見以外の何物でもないと思う。

でも基盤が物質的である限り、その自己満足の思考停止に陥る危険性はいつでもあるものなのだ。

 

科学を軽視するわけではないけれど、それが一つの見方でしかないことは常に留意しなければならない。それが僕にとっての科学への敬意だと思う。

全てのものを科学で説明しようとするのも一つの試みだ。それはその役割の人がやればいい。

 

物質的なものの代表として科学と書いたけれど、それは科学だけでなく、他者に伝えるための理屈全体がその空気を帯びることになる。理屈は伝えるためのものだから、どうしても相対的な指標が必要になってくるからだと思う。精神的なものでも、理屈となれば正しさを纏う。

それはそれ、とどこかで思っていても、それはそれ、になっていないことが多々ある。根本にあるからそうなってしまう。

 

 

例えば物質的な基盤とは別のもので世界を捉えている人たちが、夢を啓示か何かと捉え、僕らが幻覚として捉えるものを別の現実として捉える所を目の当たりにした時、どうしたら彼らの世界の見方を尊重などという一種の見下しではなく、別の見方として本当の意味で認めることができるだろうか?

基盤を捨て去るのは難しいようだ。その基盤があるからこそこういう見方ができるのも事実だから感謝もあるから、それはそれで持っておきたい。

では2つ基盤を持てばいい?でもその先には苦しみがある。物質的な見方には一種の不寛容があって、それが回路のように別の見方の邪魔をする。それを無視して色々取り込むと酷いエラーを起こしてしまう。そういうことを色々やってきた反省もある。

 

回路を取り外す為には明確に原因となる配線を見つけなければならない。でもそれは僕自身の内側にあるようで、時に民族的なものや文化的なものや世代的なものとして別の部分から継承していたりもする。本当に難しい。

  

でも一つそうではないものがあって、ワンダーは、それそのものに対する、そして見方や捉え方に対する驚きは、無垢な子供のような感じ方は、そういったものを超えられるものだと思う。『ソフィーの世界』のソフィーはその感覚を持ち続けながらも、既に自らの価値観に縛られている。自分を見ているようだ。

 

無垢であることと思考できるということは僕の中ではどうしても相反してしまう。両方を同時に持つとなると、二人の自分を持たなければならない。それは一種の代償なのだろうけど、そうではなく上手くやっている人はいるのだろうか?

 

無垢な捉え方の問題、それは説明に繋げることができないことだろう。それを出来る人がいるけれど、僕には無理だと思う。

でも僕にとって、僕の感じ方以上に大切なことがあるだろうか。僕の中で感じ、答えを求められれば(例えそれが見つからなくても)良いのではないか。

 

でも伝えなければならない場面は意外に多い。

やはり問題は、それを伝える時、「凄かった」「好き」「楽しかった」で済ますことが、単に説明の労力を省いているわけではないという事が伝わらない事だ。言葉にできない部分、説明できない部分、何かを守るためにあえて言葉にしない部分を全て含む分短い感想は重いのに、やる気がない、伝える気がないと思われてしまう。

でも言葉にすればするほど心象は崩れていくし、伝えるために作り上げた粘土細工は、思いだけでなく排他性も誤解の種も取り込んでいく。そうまでして伝えることにどこまでの意味があるのだろう?その人なりに自分で感じてもらえばいいのではないか?

 

 

これも言いたいことをまとめれば、

「色んな見方で世界を見たいな。でもそれって難しいし、伝えるのはもっと難しい。」これだけ。僕にとっては重い一文だけど、それは飽くまで僕にとってなんだなぁと思う。

伝えたいから長くなってしまうけど、どこかかけ離れていってしまう。