みんながマスクしているとマスクしたくなくなる。自意識過剰だろうって言われれば、まぁそうだろうなぁと思う。
僕はかなりひどい鼻炎持ちで、寒暖差刺激から異物から色んなものに反応するからマスクは生活に欠かせないものなのだけど、皆がしていると嫌になる。同時に、僕がしていないとこの人は嫌な思いするんだろうなって思うと嫌だけどマスクをする。
ファッションが嫌い。少し広義のファッション。
ユニークネスからファッションに、ファッションからユニフォームになる内にどんどん嫌いになる。今のマスクはユニフォームだ。(あ、日本の話じゃないよ。多分大体一緒だろうけど。)
その状況下において彼らの内側では、マスクをしていることに意味そのものがあって(それを認識しているかに関わらず)、それは条件付な肯定のためのものだ。反対側に否定があればそうなっている。
その場でマスクをつけるということは彼らによって彼らの意味で肯定されるということだ。それが気に食わないんだと思う。
肯定否定はなにも意識的なものとは限らない。無意識による選別だからこその悍ましさがある。
自分がマスクをしていて「あいつはマスクをしていない、なんて意識が足りないのだろうか」そう感じた時、その人(あるいは僕の中の彼)は既に感情的な土台の上に立ち、理屈を上塗りしていることが大半なのだ。それは集団の中でマスクをしている自分があってこそ起きるバイアスである。無意識に集団からの肯定を望むが故に、集団の後ろ盾がその瞬間の自己を作り上げていることが生む一種の見下しであり、単なる傲慢である。
根底にあるのはやはり不安。(集団的な不安の中では同じように不安を感じることで相対的に不安から逃れられるかのような作用が働くのだと思う。その影響下において忘れてはならないのは、不安そのものは消えておらず、ただ個人としては感じないだけである。)
それに肯定されるというのは二重三重、いやもっと重なった意味で不本意であり苦痛なのだ。だからむしろ否定されたい。
こうやって仕方なしに自己肯定のために自己正当化の言い訳を探してはその傲慢さに自己否定に陥る。分かってるよ。条件反射だよ。
ファッションそのものは現象だ。それにケチをつけても意味がない。フィットインする人達というのも紛れもなく個々は紛れもなく素晴らしい人たちだ。
であるならば、否定されるべきは自己である。そうだろうよ。それが一番楽だからね。
でもね…
さて、この約1000文字の間に何回スイッチが切り替わったでしょう?特に後半が酷い。どの僕が僕ですか?
そうやって逃げるんだ。新しいね。