感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

相対性

僕は今地図上の座標的には静止しているけど、例えば宇宙空間から静止して見れば地球の自転によって凄い速度で西へと移動している。でもそれは僕から見れば太陽や星空が東から昇り西へ降りていくことだ。

しかしそのさっき宇宙空間からといった視点は、静止しているように見えて地球と共に太陽を公転する視点だ。太陽系外から静止して見ればものすごい速度で太陽の周りを周回している。逆に太陽から見れば地球は、地球から見た地球の月のように自らを回る存在だ。地球が27回自転する間に地球の月は地球を一周公転するように、太陽が約365/24回自転する間に地球は太陽を1回公転する。

地球の月は地球をくるくる回りながら地球と一緒に太陽を回る。それでも月が公転しているのは地球だ。僕が今下向きに引っ張られているとだけ感じるように、月も地球との関係ばかりを感じているのだろうか。アームストロングもまた、月に下向きに引っ張られた。その時アームストロングは地球を俯瞰しているようで、地球に縛られてその周りを周っている。

 

さっき太陽系外からといった視点は、静止しているように見えて太陽系と共に天の川銀河の渦を他の恒星系たちのように公転的に動いている。銀河の中心を公転のような動きをしているのか、途中で別のものを1~複数段階公転しながら周っているのかは分からない。取り敢えず銀河の中心を中心として銀河面を離れず周っていることになっている。

f:id:hasriq:20200401150407j:plain

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Motion_of_Sun,_Earth_and_Moon_around_the_Milky_Way.jpg

 


The helical model - our Galaxy is a vortex

 

そこから、もしくは逆側から見れば地球は螺旋を描き、太陽系惑星の月たちは2段階で螺旋を描いている。僕は螺旋を描きながら自転と共に回転している。(僕自身は地球のコアを中心に公転しているようなものだ)

 

天の川銀河自体も移動している。すべての銀河は外に向かっているということになっている。その中でも銀河団や銀河群を形成し、相互に影響し合いながら動いている。

その動きが外に向かいながらも何かを中心にして公転しているとしても何ら不思議ではないと思う。その中心自体が動いていても何ら不思議ではないし、その動きの中心に何かがあってもおかしくはないし、それ自体が動いていても…

寧ろ僕にとっての理には適うものだ。それを理とは言わないのだけど。

 

例えばビッグバン・セオリーが正しいとして、全てが外側に向かっているとしても、それはこの元にあるビッグバンの話だ。ビッグバンがミジンコの繁殖のようなものであれば、僕らの指す全てが外側に向かうこの宇宙がミジンコ一匹の個体だとして、大量の中の一匹に過ぎない。その大量のミジンコが自転し、公転し、螺旋を描いていても問題はない。

 

ミジンコで例えたように、それがどこかの段階で生物のような集合の形態をとっていても、自動販売機でお茶が出てくるのを期待してお茶のボタンを押す程度の話だ。でもお茶以外が出てくることもあるから、誰も次にお茶が出てくるとは言えない(補充した人しか知らないことだ)。

それがどこかで反転して全てが僕の脳内の話になったとしても、何ら不思議ではない。それが不思議ではないのは、不思議なことしかないからだろうか。1+1が2になることも、本当は不思議なことであるように。僕の存在も思考も反応も感覚も全てが不思議なことであるように。

 

 

さっきの話に戻ると、きっと限りなく外側から見た僕はものすごく複雑な動きをしているのだけど、僕はただ下に引っ張られている。それすら直接的には感じない。

人間の知覚なんてその程度であって、地球の動き云々もとうに人間の認識できる範囲外の話なのだろう。相対性の中からしか見ることができない以上、相対的に、相対的にを繰り返して想定していくしかない。それにどこまでの意味があるのだろう?

絶対的な視点など存在しないと言われても、それを追い求めるのが人間なのだろう。 

 

どこまで意味があるのかわからなくても、その裏腹ワクワクするし、凄いなって思うし、本当のことを知りたい。

本当のことというのはその時だけの、その人達だけの物であることが多いから(それでもその時は少なくともその一部は本当のことなのだ)、もっと本当のことが知りたい。でもそれは、僕が認識できる範囲外の話なのだろう。知ったところで僕はその本当のことが本当である核心について本当には分からないと思う。だから僕が仮に究極なまでに本当のことを知ったところで、僕の本当のことについての理解は本当の意味を失ってしまう。

 

 

こと関係においても、自分というものが流動的で限られていて固定できない存在である以上、絶対的と思い過ぎるのも危ういのだろうな。