感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

『Think you're lazy? Watch this』から

YouTubeのお勧めに出てきたんだけど、これ面白かった。

 


Think you're lazy? Watch this

 

Ambitionというものも、社会的に価値のあるとされるものではなく、自分にとっての価値を追い求めることと捉え直す。多くの生物が様々な尺度で生存を求めることに野心を見出すように、人の多くの行動もそう捉えることが出来る。

自らが主体的にその何かを追い求めているという意識は、それがネガティブだという固定観念から脱却するだけでなく、一種の比較(ネガティブ、消極はその対極があっての見え方)からも抜けだすことになるだろう。

 

「日々やっている小さなことから」ということだから書いてみよう。

 

私は野心的です。なぜなら僕は土曜日は12時間以上寝てゴロゴロ過ごすから。浪費が激しくてそうなってしまう。これは違う。

私は野心的です。なぜなら僕は合気道教室に通っているから。通っている…?サボりの方が多いのだけど。ほら、コネって大事じゃん?こういう場がないと僕は人と会わなくなっちゃうし…動機が不純だけどこれはまぁ野心かな?いや、これは主体的と見せかけてそうしなければならないと自分を思い込ませてるだけなんだよね。

私は野心的です。なぜなら僕は車の運転をする…のは嫌々なんだよなぁ。

私は野心的です。なぜなら子供と映画やアニメを一緒に見ているから。子供向け作品は僕が失った色んなものを思い出させてくれる。これはいいね。

私は野心的です。なぜならブログを書いているから。これは内面の整理として大事な作業でして、特にぐっちゃぐちゃで自分で自分が分からなくなる僕にとっては大事。一大野心でもあるのかな。

 

なんか宗教儀式みたい。自己暗示的な意味もあるのだろうか。

20分ぐらい考えたけどこれ以上思い浮かばない。どうしても繋がらないから書いては消してになる。

 

これ多分ね、生きる実感というものに凄く関係してると思う。

森の中の村にいる時の自分として書いてみる。

 

私は野心的です。なぜなら僕は魚を獲るために刺し網を仕掛けるから。そしてそれは食べ物を与えてくれるだけでなく自然の状況の変化を教えてくれる。

私は野心的です。なぜなら僕は投網で漁をするから。食材を得るためのこの行動は、活動を通し本来的な人の生活リズムを思い出させてくれる。

私は野心的です。なぜなら僕は森の中を散歩するから。それは五感を通じ森の一部となることで自分という存在が確かになる。そしてその時間は自分の内面の変化を教えてくれる。

私は野心的です。なぜなら僕は星を毎晩眺めるから。無数の星たちは僕の立っている場所を教えてくれる。

私は野心的です。なぜなら僕は果物を採るから。甘い果物を得るための行動にも、視覚、嗅覚、時に聴覚を使い、木を登るという沢山のプロセスがある。頭をよぎる落下の恐怖を制すのは、果物をたくさん採って配り、皆の喜ぶ顔を見たいという野心に他ならない。

私は野心的です。なぜなら僕は村に果物の苗をたくさん植えているから。10年後には僕が植えた木の実を子供たちだけでなく色んな人が食べて、その喜ぶ顔が見れる。孫ができる頃には大木になっていて、その頃には漁をしながらゆったりと暮らすのです。

 

やっぱりいくらでも書けそう。

帰りたくなっちゃった…

 

ああ、そういうことなんだなぁってなんか自分の中で繋がった。これは収穫。

街の生活では僕の野心や望みに繋がるものが少ない(手の届く範囲の物では)。願望ならいくらでもあげられるんだけどね。僕自身の価値観に見合わないものに合わせ浪費して過ごしているのだろう。そりゃ衝動的に世界を、いや文明を破壊したくもなるよね。

 

この動画はAmbitiousとLazyの対比の問題を扱っているけど、別に他の言葉でも構わないんだよね。あの人はAmbitious、僕はLazyという捉え方を、みんなAmbitiousでみんなLazyな部分があるのだ、と直すことに意味があるのだと思う。

周りからそういう目で見られる場合、そして自らをもそういう目で見てしまう場合、対比の逆側の言葉を自らに当てはめ、捉え直すことでその相対性のシーソーから降りられる、的なことだと思う。

 

でもこういうのは休日にやるのがいいな。楽しいけど疲れる。逆か。疲れてるから楽しみが減る。