感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

数字遊び 言葉遊び

未知への不安や恐怖が実体であって、数字の内訳とかスパイスに過ぎないのだろう。

https://www.worldometers.info/coronavirus/

 

人口の円の中の感染者数の円の中の発症者数の円と被りつつもより小さい陽性者数の円の中の重傷者数の円の中の死者数という小さな円があって、それぞれにはいろんな内訳がある。(何より検査数の円は国や地域によって大きく変わり、精度も関わってくる。その中の陰陽でしかない)

大きい円ほど確認は取れなくなるけど、小さい円ほど場所による記録の取り方に大きく依存することになるし、既存の状況の影響を大きく受ける。

という解釈をしているけど、数字は苦手だから間違ってたらごめんね。

 

その小さく可動な部分を切り取るから死者数ばかりが強調される。でもAge groupやExisting conditionを中心に見た時に、その人達はこの先1年以上生きるような人たちだったのかという疑問が大きくなる。(やり玉に挙げられるイタリアはこれ

おじいちゃんおばあちゃんの老衰だって、老化で弱ったところに風邪や何かで体調をこじらせて苦しんで死ぬものが多いのではないか。僕が大好きだった祖父の老衰だってそういう肺炎だった。穏やかな老衰なんて幻想ではないだろうか。それが老衰というものならば、この数字の中にどれだけ老衰が含まれるのだろう?逆に、国によっては含まれていないところもあるだろう。

 

そういう人たちが毎日ものすごい数亡くなっている中、ウイルスの蔓延は一つの要素でしかないのではないか。そんな中検査で陽性なら、場合によっては検査なしでもこの死者数に入れられる。

 

なんて言うと怒られるのがこの状態であって、だからこそトランプがセンセーショナリズムだと批判するような記者も出てくる。

色んな割合が飛び交うけど、その割合にどんな意味があるのかという以前にどんな無意識の意図がそう見せるのかを考えないで、その数字に何の意味があるだろう?致死率という言葉も見かけるけど、何を分母にしたどんな状況での致死率なのだろう。

結局不安や恐怖をエネルギーとして取り込みたいだけじゃないのか。

 

危険じゃないとは言わないし、お年寄りが苦しんで死んでいいとも言わないし、いろんな国や機関の取り組みが無駄だとも言わないし、寧ろ必要なのだろうと思う。医療現場の人たちは凄いなって思うし、ジャーナリストも自らの信条があるのだと思う。

でも煽る要素を持つ発言なら根拠を示して欲しいし煽られるなら根拠を持って欲しい。集団の感情で動く生き物ならそれを自覚しなければならないし、感情が及ぼす影響にこそ責任を持つべきだと思う。冷静さとは集団の正しさの上に保たれるものではないのだから。

例えば行動制限が必要だというならその理念は理解した方がいいと思う。

僕も同じく影響下にあるのだからそのぐらい言っていいよね。大半が感染して死ぬのが怖いからという感情的な動機で行動制限を支持する国に居るからストレスが溜まるのです。この人たちはいつ行動制限を解除できるのだろう?政府はソーシャルニュースに煽られた国民の感情に乗っただけで、乗ってしまったが為に理性的な動きをすればひっくり返される土台を作ってしまった。政権変わったばっかりなのに。

 

 

数字遊びがしたいのなら参加しようかな。

どこかの国では毎年2万人以上が自殺して、そのうち500人以上が未成年らしいですよ。(この中の多くは、健康状態だけ見ればこの先1年以上生きる人たちだと僕は思う)

https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/suicide04/

精神疾患の患者とされる人は400万人以上になるそうです。自殺者数が年々減っている裏腹、精神疾患の患者数は増え続け、薬漬けの人も増えているということになります。根本的な原因を考えると寧ろ悪化していませんか?

自殺死亡率は10年前の25から2018年は16.5まで下がっているけれど、それでも10万人当たり16.5人。

最初に貼ったサイトには新型コロナウイルスによる100万人当たりの死亡者数がある(これからも増えるけど)。数字を合わせて重ねるとどうでしょう。

 

500人以上死ぬということは、置かれた環境、状態、そして症状とされるものに苦しんでいる子たちはその数字よりはるかに多くなるでしょう。未遂は何件になるだろう?

肺炎の後遺症が怖いというけれど、後遺症は目に見える物だけではないと思いません?生活に支障が出て、時に寿命も短くなる。

 

ウイルス騒動で学校が休みだからその状態から離れられる子が多いのは救いかもしれないけど、その穏やかな日々は苦しみから解放されたいという気持ちに繋がって、学校再開後耐えられなくなる子が実際にある種の解放を選んでしまう。それはある種の救いなのだろうけど、僕は悲しい。

この騒動の最中、色んな人が色んな影響を受けるわけだけど、いったいどれだけの人が精神を病んでどれだけの人が失意から自殺するのだろう?

 

 

どちらも同じく意味のない仮定で言葉遊びだけど、僕にとってはこっちの方が怖い。年間2万以上、500以上という数字は繰り返される慢性なのに、慢性だからこそなのだろうか、気にも留められない。

僕もそうだけど自分にとってどれだけ意味がある数字か、それだけのことなのだろう。でもその数字は本当に関係があるのだろうか?

 

 

ということを思ったのは、昨日ついついtwitterを開いた時に、39度の発熱で水しか飲めない状態をインフルエンザでは軽症として扱われるとかなんとかっていうツイートとそれに対する感情的な数々の反応を見てしまい、イライラしてしまったから。こっちは言葉遊びだろう。

免疫が正常に働いて水が飲めるんだから軽症でしょ?ナチュラルな扇動の図だと思った。ウイルスのことは書かないと決めてたのに。やっぱりもうSNSは暫く見ない。

 

扇動する側は啓発のつもりなのだろう。発する側も受け取る側も、悪意はないのかもしれない。怖いのは仕方ないのだろうし。

どうして人はこうなってしまうのだろう?